シリーズ日本アナウンサー史⑥「前畑がんばれ!」伝説のスポーツアナ河西三省
松内則三による水泳実況の2年後、1936年8月11日。
真夜中というのにどの家にも灯りがともっている。全国民が「今か今か」とドイツからの中継に耳を傾けていた。
放送開始予定時刻の深夜0時を過ぎると「スイッチを切らないで下さい、もう予定時刻ですが、切らないで待ってください、そのまま待って下さい。強敵はドイツのゲネンゲルです。はじめ抜かせて、あとでぐんぐんつめるのがわが作戦です。大日章旗を揚げるか揚げないかの境目です。」と実況アナウンサー河西三省の声が、はるかベルリンから届けられた。
深夜の列島を興奮と熱狂の渦に飲み込む熱い熱い夏の夜が始まる。
ベルリンオリンピック女子200メートル平泳ぎ決勝戦、ドイツのゲネンゲルと日本の前畑秀子は激しいデッドヒートを繰り広げた。
「前畑あと十メートルで百五十、あと十メートルで百五十、わずかにひとかきリード、わずかにひとかきリード、前畑がんばれ!前畑がんばれ!前畑がんばれ!」
河西が繰り返した「前畑がんばれ!」は、なんと38回。遠く離れた国民の願いを込めた魂の叫びであった。
「前畑がんばれ! リード、リード、あと5メーター!あと4メーター、3メーター、2メーター!あッ、前畑リード!」
東洋の小さな女性が、ヨーロッパ王者ゲネンゲルに果敢に食らいつく。ゲネンゲルも開催国の代表として負けるわけにはいかない。
観衆は総立ちで大声援を送る。視界を遮られた河西は、マイクを持って机の上に立ち、ストップウォッチを踏み潰すのも構わず実況を続けた。
「勝った!勝った!前畑勝った!前畑勝ちました!」
前畑秀子はわずか0.6秒差でゲネンゲルを破り、オリンピック史上初の日本人女性金メダリストに輝いた。
歓喜に包まれる真夜中の列島。放送を聴いていた名古屋新聞の支局長が興奮のあまりにショック死したというのは有名な話である。
この実況は、翌日の読売新聞が「あらゆる日本人の息をとめるかと思われるほどの殺人的放送」と絶賛するなど日本アナウンス史に残る名実況と言われている一方、客観的な描写とは言えないという指摘もある。
本来河西は“客観描写”をモットーとしたアナウンサーで、抑制の効いた的確な描写力は高く評価されていた。そんな彼が我を忘れ、涙を流して実況したベルリンオリンピック。
「ナチスオリンピック」と言われたこの大会では、日本選手にとってドラマティックなことが多く起こった。
陸上男子5000メートルで見せた村社講平の力走。
深夜までメドウスと棒高跳びを争った西田修平と大江季雄。
16メートルを飛んだ三段跳びの田島直人。村社が惜しくも4位でゴールインした時も河西は泣きながらマイクに向かった。
河西は、自身の実況を恥じていたのだろうか、あまりそのことを語りたがらなかったが、晩年ポツリと「ぼくみたいなおとなしい人間があれだけ興奮したんだからねえ。」と呟いたという。
「豪華版」などの言葉の産みの親でもある昭和の名アナウンサー河西三省は1970年、72歳でこの世を去った。
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