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『すでに持っている』という視点で考える

先日、地元越谷で開催されたとあるイベントに参加してきました。

テーマは
【子供の自己肯定感】

最近、我が子との関わり方が上手くいかず。
試行錯誤の連続。

本人も8歳という精神的にも成長している段階であるのはわかっているつもりでも、結局はつもりなのかもしれないし、どうやったら自分の子供と正面向かって気持ちを伝えあえるのだろうか。
そんなことを考えていたタイミングで、以前から活動を知っていた矢生さんのイベントを教えていただき、参加。
矢生さんに関してはこちら

テーマは【子どもの自己肯定感】

最初の矢生さんの一言に衝撃。

人は産まれた時から自己肯定感を持っている


お腹が減るから泣く
眠いから泣く
オムツを変えて欲しいから泣く

泣くという行為が唯一のコミュニケーションであるからこそ、遠慮などあるはずもなく、自分は〇〇なんだー!という欲求をストレートに伝えている。これって自己肯定だからこそ出来るよね。

と矢生さん。

確かに。
自分なんて。。。と思って泣くの遠慮していたら、人として生きる事ができない。
生きるために、自分は生きている!ということを相手に伝える、アピールする。めっちゃ肯定している状態だなぁと。

元々持っているはずの自己肯定感。
でも世間的には『ゼロから育てる』『育む』『伸ばす』という、あたかも成長とともに増えていくもの、伸ばすモノという前提がある。

【生まれてからずっと持っているものだからこそ、導く・育てるというものは実は大人のエゴなのではないか?】
という疑問が生まれる。

子どもは自己肯定感の塊である
という見方で捉えてみると
実はもっと違った考えが出来るのかもしれない。

子どもの可能性は無限大であるにも関わらず天井を設定してしまうのも大人であるという矛盾

うちの子は、、、に続くこんなフレーズを聞いた事がある

・足が遅い
・私に似て物覚えが悪い
・絵が苦手
・手先が不器用

これって、見えている今の状況しか捉えていない大人の都合、天井を勝手に設定されているからではないだろうか。

子どもたちは
知っているし
持っている。

だからこそその知っているものを伸ばし、持っているものを伸ばす。

いつしか人は、自分の生きてきた世界の物差しが正しいと思ってしまう。
その世界は自分自身が見てきたものであり、もっと世界は広く深く高い。ということすら見えなくなっているのかもしれない。

実際、100年前にスマホも、無人運転する車も存在しない。

でも、誰かが想像して、創作したことで今この世界に現れ、我々の世界を豊かにしてくれている。

実は、我々大人が教えるというのは自分の知っている世界の範囲での話で、教えるなんてとても烏滸がましいことなのかもしれない。という現実が目の前に現れ、ちょっと衝撃を受けました。

教えるではなく、共有する位が丁度良いのかも。

もう思ってから
息子には
『お父さんは〇〇と考えたよ、〇〇はどう思う?』
と問える回数が増えてきました。

子どもはすでに持っている

それは
肯定感もだし
意見や考えもだなぁ。

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ひろ(髙野浩幸)
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