RWANDAからimigongoがやってきた
イミゴンゴ(imigongo)とはルワンダの伝統アートだ。
その東京・三宿のカフェ「SUNDAY」での展示会に二度、足を運んだ。
この展示の主催者で、
場所文化研究家/ ルワンダ伝統牛糞アートイミゴンゴ研究の
加藤雅子さんにお目にかかりたかったこともあって
二度目に足を運んだときは、トークイベントにも参加した。
白と黒を中心とした幾何学模様。
そこにときに赤、ときに黄色が混ざる。
その幾何学模様から、言語化できる何かを見出すのは難しい。
じっとそれらを見ていると、なにやら吸い込まれるように
身動きが取れなくなってしまう。
ただ加藤さんによると、この幾何学模様に
呪術的な、あるいは宗教的な意味合いはまったくないそうだ。
このイミゴンゴ、実は乳飲み仔牛の糞でできている。
牛糞アートなのだ。
三宿の会場に、イミゴンゴ制作するプロセスを撮った映像が流れていた。
女性たちが牛の糞に石灰を混ぜ、まるで小麦粉で生地をつくるように
こねている。何人もの手が入って、やがて粘土のように一塊になっていく。
支持体は板だ。そこに直線は定規(だったか、糸だったか)を使ってきっちりと、曲線はフリーハンドで下書きされる。チョークを使っているように見えた。
その線に沿って、先ほど練り上げた牛糞を、親指と人差し指でつまむように盛り上げながら(山の頂上をつくりながら)、模様のベースとなる立体的なラインをつくりあげていく。
そして乾燥。乾いたところでヤスリをかけて、凹凸をなめらかにしていく。
その後、(昔は天然の)顔料を指先で塗っていく。
できあがったイミゴンゴは、ルワンダから遠く離れた東京・三宿でも
微かに甘い匂いを放っている。
顔を近づけて集中して嗅ぎ取ろうとしないと分からないほどだが
それが顔料由来の香りなのか、牛糞のそれなのかは分からない。
加藤さんの解説をHPから引用してみよう。
ルワンダ南東部 ニャルブイェを発祥地とする伝統アート
1800年代前半、当時のギサカ王国のカキラ王子がはじめたとされています
部屋を美しく飾り、訪問してくれる人に良い時間を提供したい
ルワンダでは人を家に招くことはとても大切なこととされており
歓待の気持ちを表す方法が様々にあります
室内の装飾もその一つ
ハッとする模様や、じっと見つめるとなんだか落ち着いてくる柄たちが
人間関係のあれこれに一役買ってたのかもしれません
原材料は乳飲み仔牛の糞
草と母乳を半々くらいずつ摂取する生後2ヶ月ころから1歳くらいまでの仔牛がベストとされています
牛が一頭いれば 一家が豊かに暮らしていける
そう言われていたほど 牛は生活のなかで大切な存在
余すところなく共存している様子がうかがえます
仔牛の糞を集めてきたら、粒子を細かくした灰と混ぜ
粘土状にして指でつまみながら模様を描いていきます
当時は広い壁一面に直接柄を施していました
持ち運びのできる木板に変わった今も
その幾何学模様から
板の外へと続く拡張性を感じることができます
地べたに座り、腿の上で製作するイミゴンゴ
場所のエネルギーを満々に湛えた作品は
飾られた空間にメッセージを放ちます
そして 時として問いを。
知っていたけど改めて問われたこと
問われて初めて気づいたこと
まさに考えたかったことが その問いに端を発するものだったこと
もてなし要素として誰かのためにも
もてなし要素として、自分のためにも
イミゴンゴのある空間から
視座の変わる日々がはじまります
イミゴンゴは伝統アートと括られているが、19世紀に誕生したと捉えれば、
思っていたほどは古くない印象だ。
ギサカ王国のカキラ王子が始めたという。とても几帳面な人物だったらしく、やがて花嫁修業一環として市井に広まっていく。
トークイベントでの、ギサカ王国のくだりは
さながらロールプレイングゲームのそれのようだった。
イミゴンゴは、展示会場でディスプレイされたものを見るより、
インテリアの一部として、風景の中にあるものとして
目に飛び込んでくるほうが素敵だった(そういう写真も見せていただいた)。
インテリアとしてあると、そこに自然が持ち込まれたような風の流れのようなものが生まれる。風景の中にあると、そこにアーティフィシャルなもののつくり手として人の気配が漂う。
加藤さんのトークセッションは、思わぬ方向に進んでいった。今ここで話したことは、あくまでも暫定的な見解だというのだ。ネイティブは、それがイミゴンゴであることは知っているが、イミゴンゴが何であるかは知らないし、問おうともしない。
一つの絵柄に対する名前も解釈も複数あり、
どうやらそのどれもが間違いとはいえないらしい。
研究者としてはなんとも歯がゆい。
が、加藤さんはそれを受け入れ、“いまのところ”というエクスキューズをつけて話している。
本当のことはわからない。
いや、そもそも本当のことなど存在するのか。
もしかすると、わからないまま、それを受け入れていくことも
一つの向き合い方なのではないか。
そんなことを加藤さんはクロージングで話していた。
(メモも取らず、記憶だけで書いています。間違っていたら、責任は私にあります)
それはもう、一つの“アートする”態度として加藤さんが獲得した視点のように思えた。
加藤さんを知ったのは、stand.fm だ。
ご自身の話だと、新型コロナウィルスによって、ルワンダは完全にロックダウンされてしまったので、リハビリのような意味合いで音声配信を始めてみたということらしかった。
彼女の耳触りのよい声は、多くのリスナーを惹きつけている。
が、直接お目にかかって話を伺ってみると、
ちょっと茶目っ気があって、お転婆なニュアンスが見え隠れして
声から思い描いていたよりも、もっとずっとアクティブな人だなという印象だった。
そうはいっても物腰は穏やかで洗練されている。それは大学を卒業して勤めた先で身につけたホスピタリティなのかもしれなかった。
いつか我が家にイミゴンゴを迎える日が来るだろうか。
へびあし
イミゴンゴ、最初に変換したときに“意味言語”と出た。意味深長である。