私の娘だけど、私に似ないでほしいところはたくさんある。
私が未来のためにできること。
それは娘を育てることだと思う。
幸福な人間に、幸福な過程を経てなってほしい。
つらいことや苦しいことがあっても、彼女の中に根を張った幸せな経験を糧に歩み続けてほしいと思う。
「生きているだけで価値がある」と思える自己肯定感を、私は残念ながら持てなかった。
双極症になって、パートでも働けず、専業主婦なのに1歳の娘を保育園に通わせる。
そんな自分の価値は、全くないとは言わないが、懸命に働いている人々と比べれば劣るものだと思っている。
きっと、父も母も、祖父母だって、私のことを大事にしてくれたのに、社会の役に立たないと(労働しないと)価値がないと、自分のことを思っている。
申し訳ないし、情けないと思いつつ、けれどその思いは案外根深く根底にあり私からなくならない。
私みたいな人間は、もしかしたら多いのかもしれない。
むしろ普通なのかもしれない。
空気を読み、人の気分を害さないように、その場の流れを乱さないようにする。
正しいか間違いか、自分は好きか嫌いかはいったん横に置いてしまう。
でも、それが一種日本でのうまいやり方であり、「正しさ」でもある。
その中で、娘には「ただ存在するだけで自分には価値がある」と思える人間になってほしい。
空気は読むけれど、自分の意見を言える人間になってほしい。
全ての選択を、自分の頭を使い、自分の責任でもってしてきたと自負してほしい。
歴史の流れに、国の経済状況に、飲み込まれることもあるのかもしれない。
でも、踏ん張って自分の足で立っていたと思える人生を送ってほしい。
要は、私のようになってほしくない。
でも、娘は私の血を分けた娘であり、私のようになる可能性は多分に秘めているのだろう。
だから、結局大切なのは、娘の成長が私の望んだような姿でなくても、私が娘を愛することなのだ。
未来の娘がどれほど弱くても、どれほどひねくれていても、大切に大切に受けれいていくことが、唯一私のできることなのだ。
考えれば考えるほど、人を育てる営みの深さに慄いてしまうのだけれど、望んで親になり、望まれて生まれてきた娘なのだ。
幸せにしたいし、幸せになりたい。
そして、私にとっての幸運は、すでに今が幸せだと思えることだ。
あなたがいてくれて幸せだと、毎日毎日、飽きるほど伝えて行きたい。