娘の目を通して子どもに戻る
こんにちは。
病弱メンタルで会社員ができない自称文筆家の専業主婦、鷹野いづみです。
娘は今日も元気に保育園行きました。
もう少しでお迎えに行かなくてはなりませんが、それまでに終えることができるのか!と時間と勝負しながらの執筆です。
子どもって可愛いじゃないですか!(突然)
私たちにとっては当たり前のことでも驚くし喜ぶし、知らなくて失敗するけど気にしないでニコニコしているし。
そのメンタルと心が私も欲しい!
それはさておき、今日は登園の際に園の近くにゴミ収集車が止まっており、娘は興味津々。
「見てみる?」と聞いてみると頷いて近づきます。
ちょうど後ろのゴミを集めるところが閉まってしまいぐるぐる回っているところは見れませんでしたが、本人は「ばいばーい」と手を振って満足そうでした。
「そうだよね〜。はじめてみると不思議だし驚くしかっこいいよね〜」と微笑ましく娘を見ていましたが、ゴミ収集車が「なんだかかっこいい」だなんて娘を通して見るまですっかり忘れていましたよ。
一緒に散歩をすれば、道端の名前なんて専門家しか知らないだろうという草花に興味を示しますし、近所のおうちのお庭のお花を見るのも大好きです。私もお花を育ててみようかと思うくらい。
「そうだね〜。この前までオレンジ色の実がついてたのに、いまはなくなっちゃったね〜。不思議だね〜」と娘に話しかけながら、娘がいなかったら気づかなかった変化だろうなと思いました。
娘の子どもらしい欲求に応えていると、なんだか自分の感性も大切にできる気がするから不思議です。
素直に不思議だと思い、触ってみたいと思い、そんな娘の気持ちがよくわかると思いながらどこまで叶えてあげれば良いのか悩む営みはなんだか尊い気もする。
できるところまでなるべくその好奇心を満たしてあげる。
そうすることで、なんだか子どもの頃の自分を大切にしなおしている気持ちになります。
子どもをやり直す、というのでしょうか。
「お母さんとホットケーキ焼いたな」
「お父さんがたくさん足に乗せてくれたな」
そんな愛されていた記憶が蘇りますし、自分がされて嬉しかったことを娘にやってあげたいと思います。
「ああ、私もお母さんにこうしてほしかったな」とか「私もお父さんとこんなに遊んでほしかったな」とか。
そんなふうに思うことは、娘にやると幼い自分も満たされる感覚がします。
娘を通して「子どもの時はこんなふうに感じていたな」「こんなふうに見えていたな」と思い出したり、「私もこうだったのかな?」と思い馳せてみたり。
そうすることで、私の中の凸凹な箇所が整っていく気がするのです。
尖っている部分が丸くなっていく感じがするのです。
それは私にとっては心地の良い感覚です。
なんだか毎日がパッとしなくて、あっという間に時間が過ぎてしまって。
でも娘と外を歩くと、季節の移ろいを感じることができます。
その時だけ、時間の流れが少しゆっくりになる気がします。
ただ歳をとっていくだけのような、枯れていくだけのような、そんな人生が一瞬みずみずしくなります。
確かに、世界があざやかに見える気がします。
色が、はっきりと見えます。
私にも気付ける感性が残っていたと、ちょっとホッとするような。
まだ、自分を諦めなくてもいいと思えるような。
そんな感覚がするから不思議です。
この世界はそんなに悪くない。
いい人もいるから、ちゃんと頼って生きていくんだよ。
自分で全部頑張ろうとしちゃダメだよ。
そう、教えたいと思うことは私の心に染み込んで、本当にこの世界は悪くないと思わせてくる。
うつ病になってしまった私だけど、この人生でいいと肯定させてくる。
娘を育てていく営みは、きっと私の考えや見方が歪んでいると突きつけてくる。
その歪みを捨てるたびに、自分の人生を肯定できる。
そんな感覚がするから不思議で、時々どうしようもなく泣きたくもなるのです。
人生をやり直している、そんな感覚すら覚えるのですから子育てとは恐ろしいものです。
何が言いたいかちょっとわからなくなってきたのですが、子どもを育てているといろんなことに気づけるし、価値観が粉々に砕かれたりもするし、でも、それで楽になることもあります。
だから、娘といるのは大変だけれど、私はとても幸せですよ。
時々疲れてわんわん泣いたりもしますけどね。
でも、泣いちゃうことは不幸とか、娘がいなければ良かったとか、そんなことは意味しないのです。
そこが不思議でもあるんですけどね。
そんな娘が、まっすぐに育っていくのを邪魔しない親でありたいと思います。
うん、終わらないので終わりますね。
最後まで読んでいただきありがとうございます。