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欲しいのはまなざしかな?

こんにちは。
病弱メンタルで会社員ができない自称文筆家の専業主婦、鷹野いづみです。

私はもうすぐ2歳になる娘とふたりでいると頑張っている気分になって、「ご褒美にスマホ、ちょっとくらい見てもいいだろう」としばしば思います。

その時も、娘がひとり遊びを始めたので「よし!スマホ見よう!」と思っていました。

でも、ふと考え直しました。
「さっきのさっきまで一緒に遊んでいて、今はひとり遊びをしているように見えるけど、本当はまだ一緒に遊んでいるつもりだったりして」と。

そこで、しばらく娘を眺めてみることにしました。
レゴデュプロ(レゴのちょっとパーツが大きいやつ。誤飲しづらく、低年齢でも遊べる)をひとりで一生懸命組み立てます。

この前までは立方体みたいなパーツを1列に上に積んでいくしかなかったのに、それが2列3列になって大きな物体になっている。
何を作っているかはさっぱりだけれど、なんだか成長しているな〜と感じました。

そして、娘はできたものをほらと手に持って私の方へ突き出してきました。
ぱっちりおめめが私の目をまっすぐに捉えています。

この瞬間、「スマホを見ていなくてよかった」とどれだけ思ったか。

私が笑顔で「よくできたね〜」というと嬉しそうに笑って、作品を置いて次の作品を作り出しました。

見ているだけで、こんなに嬉しそうに、満足そうにしてくれるのだと、なんだか胸がぎゅーっとしました。
私からしたら「ただそれだけ」のこと。
でも、娘からしたらとても「大切なこと」なのでしょう。

見ているスマホを奪われてて床に投げつけられたこともあります。
スマホがあるから一緒に遊んでくれない、見てくれないとわかっているんです。

時折、娘の中の私の存在の大きさに恐れ多くなってちょっと逃げ出したい気持ちになったり、「そんなに立派なママじゃないよ」と思ってしまったりします。

「『この子は私の娘です』はしっくりくるのに、『この子の母親は私です』は何だかしっくりこないんだよね」と夫に話したことがあります。

夫もだいたい似た感覚らしく、「わかる!」と言ってくれました。

娘は紛れもなく私たち夫婦の子どもなのに、娘の親なのだとなんだか胸を張れないというか、「こんな私が親?」みたいな気持ちになるんです。

でもそんなこと言っている暇もなく子育ては進むと言いますか。
早く親としての自覚というか、しっかりと地に足がついた親というものになれたらいいなと思います。

そのためにも「ママ!見て!」と言われる前に見ておきたいものだと思います。
もう少し大きくなったら「ママ見てて!」って何度も言われるんだろうな〜。

スマホの誘惑に負けずに、きちんと視界に娘をおさめておきたいものです。
スマホに娘の可愛い姿を残す時は別ですけど。

見てもらっている中で遊ぶ
それは子どもにとってとても大切なことなんだろうなと娘を見ていると思います。

そりゃ遊び上手なパパやママだと嬉しいけど、別に遊ぶのが下手でも子どもからしたら見守ってくれていれば充分なのかもなと思ったりしました。

それに、遊ぶ時は「あれして、これして」と指示が入るのでそれに従っていれば一緒に遊んでいることになります。

小さな時の記憶はもうないので、私が自分の母に何を望み、何が満たされあるいは満たされなかったのかなんて覚えていません。
でも、きっと見て欲しかったんだろうな。

発表会とかも嬉しかったもんな。
両親が見ている確信があった。
その中でうまく踊れる自信もあった。

見られることは、それだけ大切なことだった。
小学校の高学年くらいになると毎年の運動会とか発表会とか当たり前になってきて、やること自体は特別感ないんですけどね。
でも、見られたいかも。
せっかく頑張って練習したのだからね。

最近、見たいものもないのにスマホを手に取ってしまうんです。
中毒かな。
このスマホ触りたいに負けずに、娘のことを見つめ続けたい。
それが娘の望むものだし、私のなりたい母親です。

ぼうっとでもいい。
スマホじゃなくて娘を見られるように、スマホとの付き合い方を考えていきたいなと思うこの頃なのです。


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鷹野いづみ
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