なぜ日本人は「忠臣蔵」が好きなのか? 赤穂浪士討ち入りの実際を探ってみよう
かつて年末の日本の風物詩の一つに、「忠臣蔵」の上演、上映がありました。昨年の年末、私は久しぶりに本所の吉良(きら)邸跡(本所松坂町公園)と高輪の泉岳寺(せんがくじ)の義士祭に出かけてみて、外国人を含めた観客の多さに驚いたものです。あれから4ヵ月。まさか外出もままならない事態になっていようとは、まったく予想もしておりませんでした。
それはともかく、少し前までは日本人の誰もが知っていた「忠臣蔵」や赤穂浪士(あこうろうし)ですが、最近の若い人には認知度が低いようです。義士祭でも、目立っていたのは年輩の方と外国の方の姿でした。外国の方は「忠臣蔵」というより、サムライの姿を見に来たのかなと想像しています。若い人が「忠臣蔵」を知らないのは、最近は映画やテレビドラマ化される機会が少ないこともあるのでしょう(昨年は『決算!忠臣蔵』という映画がありましたが)。そこで今回は、季節外れではありますが、予備知識がない人でも赤穂浪士の討ち入りのあらましがわかる記事を紹介します。
そもそも「忠臣蔵」ってどんな意味なのか
今年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』に登場する織田信長(おだのぶなが)や明智光秀(あけちみつひで)の名は老若男女、ほとんどの人が知っているでしょう。映画やドラマでよく映像化されており、ある意味、なじみのある人物であり、時代です。一方、江戸時代は元禄の頃の人物、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)はどうか。名前を知らないどころか、読めない人もいるかもしれません。まして浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)や吉良上野介(きらこうずけのすけ)となると、正しく読むことの難易度が相当高そうです。それぐらい現代ではなじみが薄くなっているように感じます。
いや、そもそも「忠臣蔵」とは、どういう意味なのか。赤穂浪士による主君の仇討ちの物語であることはわかっていても、「忠臣蔵」の「蔵」は何の意味なのかと問われて、スラスラ答えられる人は少ないはず。私も、かねて疑問に思っていました。「忠臣蔵」と赤穂浪士の使い分けや、「蔵」の意味などについては、本日紹介する記事にまとめていますので、ぜひそちらをご参照ください。
赤穂浪士の討ち入りは、単なる敵討ちではない
江戸時代には人形浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎(かぶき)でおなじみだった「忠臣蔵」は、歴史上では元禄赤穂事件と呼ばれます。播磨(現、兵庫県)赤穂藩主・浅野長矩(あさのながのり)が江戸城松の廊下において、遺恨のため吉良義央(きらよしひさ)に斬りかかった刃傷(にんじょう)事件に始まり、浅野長矩の即日切腹、赤穂藩お取り潰し。片や吉良にはお咎(とが)めなし。赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助によるお家再興運動とその挫折。そして赤穂47士による吉良邸討ち入りへと続くおよそ1年9ヵ月にわたる出来事でした。
この赤穂浪士の討ち入りは、単なる敵討ちではありません。当時は「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」という不文律がありました。武士が刃傷沙汰を起こしたら、理非を問わず双方を罰するというものです。
ところが浅野長矩が切腹した一方、吉良義央は被害者として扱われました。その裁定を行ったのは幕府(実は5代将軍綱吉〈つなよし〉その人)です。赤穂浪士が仇討ちを行うことは、いわば幕府の裁定に異を唱えるものでもあったのです。理不尽な裁定で主君を死なせたままでは、家臣として武士の一分(いちぶん、面目のこと)が立たないというものでした。彼ら浪士らがどんな歩みを経て討ち入りに至り、それを他の武士や江戸の人々はどう見ていたのか。詳細は和樂webの記事「約10000字で『忠臣蔵』の全容がまるわかり! 討ち入りの一部始終を聞いていた吉良邸隣人が明かす真実とは…」をぜひお読みください。
現代人にとっての赤穂浪士
さて、記事はいかがでしたでしょうか。今の時代において、主君への忠義やら、武士の面目といっても、なかなかピンとこないかもしれません。この辺が、若い人になじみがなくなっている理由の一つでしょうか。とはいえ私は、それらを古臭いものとして否定するつもりもありません。時代時代によって「価値観」が異なるのが人間だと考えるからです。歴史は、現代の価値観を尺度にして評するものではないでしょう。当時の人々が何を大切にし、どんな思いで行動していたのかに向き合うことが、その時代の人々に近づく一歩ではないかと思うのです。
一方で、現代の私たちが赤穂浪士に最も共感できるのは、記事にも書きましたが、理不尽に立ち向かう点ではないでしょうか。生きていく中で、理不尽に直面することは、今でも往々にして起こります。時には立腹し、嫌気が差し、逃げたくもなるでしょう。それも人間ですから、当然のことです。赤穂浪士も討ち入ったのはわずか47人。それ以外の大半の旧臣は去るか、脱落しました。これはどちらが良い、悪いというものでもないのかもしれません。ただ、逃げるよりも立ち向かう方がより困難であることは間違いなく、それに挑み、目的を見事に達成した赤穂浪士らは、時代を超えて私たちの心にも響くものがあるように思うのですが、いかがでしょうか。
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