明智光秀も登場! 京都から伊勢、奈良、山陰をゆく島津家久の戦国あばれ旅
少し間が開いてしまいましたが、先日(2020年11月11日)、薩摩の戦国武将・島津家久が、天正3年(1575)に串木野(現、鹿児島県いちき串木野市)から京都、伊勢を旅した『中務大輔家久公御上京日記』を解説する記事を紹介しました。
その記事は、串木野から京都に至るまでの、日記の前半部分でした。そこで今回は、京都に滞在しつつ近江、伊勢、奈良に足をのばし、さらに往路とは異なる日本海側のルートで帰途につく、家久の日記の後半部分を解説する記事を紹介します。意外にも家久は、大河ドラマ『麒麟がくる』でおなじみの、明智光秀とも関わっていました。
薩摩の勇将と一流の文化人
里村紹巴という人物をご存じでしょうか。戦国時代を代表する連歌師で、一流の文化人です。三好長慶、織田信長、明智光秀、羽柴秀吉、細川藤孝、島津義久、最上義光といった錚々たる武将たちとも親交があったことで知られます。薩摩から上京した家久一行を迎えたのは、この里村紹巴でした。
勇猛果敢で知られる島津家の武将・家久と、文化人の紹巴の組み合わせは、意外に感じられるかもしれません。なぜ紹巴が家久の面倒をみたのかは明らかではありませんが、紹巴の弟子が連歌師として、島津家当主である義久(家久の長兄)に仕えていること、義久自身も紹巴と交流があったことが大きいでしょう。おそらく義久は、弟が京都に滞在する期間の世話を、顔が利く紹巴に頼んだのではないでしょうか。
和歌を好んでいた家久
一方、家久にとっても紹巴は、単なる京都滞在中の世話役ではなく、より大きな意味があったようです。家久は京都で過ごしたおよそ50日間、毎日のように紹巴と顔を合わせ、散策に出かける際は紹巴がガイド役を務めました。
家久は『平家物語』『源氏物語』などの古典の舞台や、和歌に詠まれた場所を紹巴と一緒にめぐり、連歌会にも紹巴やその弟子・昌叱、心前らとともに積極的に参加して、多くの文化人との交流を深めています。ここから家久自身が、相当に和歌を好んでいたことがわかります。そんな家久にとって、連歌において最高峰の紹巴と過ごす時間は楽しく、また多くのことを学んだはずです。
坂本城の主
「ときは今 あめが下しる 五月かな」。明智光秀が本能寺の変を起こす直前、京都の愛宕山で開いた連歌会で、真っ先に詠んだ句(発句)です。「愛宕百韻」と呼ばれる天正10年(1582) のこの連歌会には里村紹巴、昌叱、心前らも参加していました。紹巴は早くから光秀と親交があったようで、京都に滞在する家久を近江(現、滋賀県)散策に連れ出し、坂本城主の光秀と引き合わせたのも紹巴です。
はたして家久は、織田家重臣として活躍する光秀にどんな印象を抱いたのでしょうか。それについては和樂webの記事「茶の作法など知らぬ!京から近江、伊勢、山陰へ。島津家久の戦国あばれ旅【復路編】」をぜひお読みください。
したたかに生きていた人々
記事はいかがでしたでしょうか。光秀の前ではなるべく目立たぬよう、家久が控えめなのは、政治的な配慮があってのことでしょう。合戦準備に忙しい中、光秀は家久の衣類が長旅でくたびれていることを見逃さず、それとなく名布を贈るあたりは、さすがに「心配り」に長けた人物であることを窺わせます。一方、茶室で家久が白湯を所望しますが、率直に茶の作法を知らないことを打ち明ける家久に私は好感が持てました。
伊勢神宮の近くではとんでもない禰宜どもに出くわし、奈良では松永久秀が築いた多聞山城に登城。さらに帰路、山中鹿介が謀略で奪ったばかりの城を眺め、平戸では領主の松浦隆信にもてなされました。しかも旅の間、家久一行は酒盛りを欠かさず、知り合ったばかりの人とも盃を交わし、すぐに仲良くなっていたようです。その辺は、根が陽気な家久ら薩摩人ならではのことかもしれません。
戦乱の時代であり、家久も軍事情報は日記に記さないなど、油断のない一面も見せていますが、当時の旅がどんな雰囲気であったかを、家久の日記は雄弁に語っているといっていいでしょう。日記には他の旅人の姿も少なからず記され、当時の人々が戦いにあえいでいるばかりでなく、したたかに生きていたことも感じられるのではないでしょうか。なお、島津家久が肥前(現、佐賀県・長崎県)沖田畷の戦いを勝利に導き、九州の勢力図を一変させるのは、この旅から9年後のことです。
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