「桶狭間の奇跡」はなぜ起きたのか? 大河ドラマで描かれない謎を探ってみよう
大河ドラマ『麒麟がくる』はしばらく放送が休止となりますが、休止前の最後の回「決戦! 桶狭間」は話題を呼びました。かつてないほど風格ある姿の宿敵・今川義元(演・片岡愛之助)、一方、従来とは異なるイメージで描かれる織田信長(演・染谷翔太)、そして本来であれば無関係なはずの主人公・明智光秀(演・長谷川博己)。この三者を軸に、史実に独自の脚色を加えて桶狭間の戦いが描かれていました。
しかし桶狭間の戦いは歴史上、今もなお、信長がなぜ大逆転を起こすことができたのか、謎が多いとされます。また従来語られてきた信長の戦法は、現在の研究者からは否定されており、さまざまな議論が続いているのも事実。そこで今回はドラマと史実を比較した上で、桶狭間の全体像と謎に迫る記事を紹介します。
風格ある名将として描かれた今川義元
駿河(現、静岡県東部)の今川義元というと、桶狭間で少数の織田勢に討たれたこと、また都の文化に傾倒したことから、かつては公家のような姿の軟弱な武将として描かれることが少なくありませんでした。しかし、実際は全く異なります。駿河、遠江(現、静岡県西部)を領国とし、三河(現、愛知県東部)をめぐって信長の父・信秀と争って勝利。また甲斐(現、山梨県)の武田氏、相模(現、神奈川県)の北条氏とも互角にわたり合い、ついには「甲相駿三国同盟」を結ぶに至りました。
さらに内政手腕も優れており、商業を活発化させています。父・氏親が定めた独自の法律である「今川仮名目録」に21ヵ条を追加し、統制を図ったことも画期的でした。ドラマでは今川兵が乱取り(略奪行為)を行うことに激怒する場面がありましたが、実際、軍律の面でも義元が厳しく統制していたであろうと想像できます。
風格があり、まさに「海道一の弓取り」と呼ぶにふさわしい名将義元が、永禄3年(1560)、駿河・遠江・三河の大軍を従えて尾張に侵攻し、一気に信長を制圧しようとするところから、桶狭間の戦いが起こるのです。
風前の灯だった信長
一方の信長は、まさに風前の灯でした。前年に尾張(現、愛知県西部)統一をほぼ成し遂げてはいるものの、まだまだ家臣たちは一枚岩とはいえず、今川義元侵攻を前に、今川方に内通する者が出ることも十分あり得ました。隣国美濃(現、岐阜県)の斎藤義龍とも敵対関係にあり、たとえ清須城に籠城したところで、援軍のあてはありません。信長が動員できる兵力はおよそ3,000。しかも尾張東部はすでに今川に浸食されており、そこを拠点に今川勢2万5,000が攻め込んでくれば、どう見ても勝ち目はありません。
しかし、桶狭間合戦の結果はご承知の通り、信長の大逆転勝利に終わります。大河ドラマでは、松平元康率いる三河勢が今川に反抗的でしたが、史実ではそれは窺えません。もちろん、明智光秀が駆けつけることもなかったでしょう。
そうしたドラマの脚色部分を差し引いていくと、残るのは桶狭間における信長の謎です。従来語られていた山間部を迂回して、田楽狭間(桶狭間北方の低地)で休息する今川義元本陣に攻め下ったという説は現在否定され、義元は桶狭間の丘陵上に本陣を据えていたとされています。そこへ信長は、どうやって攻め上ることができたのか。ここから先はぜひ和樂webの記事「奇跡の逆転劇から460年! 織田信長はなぜ、桶狭間で今川義元を討つことができたのか」をお読みください。
死中に活を見出す
さて、記事はいかがでしたでしょうか。桶狭間の戦いは戦国でも指折りの大逆転劇としてよく知られている合戦ですが、信長がいかにして義元本陣に斬り込んだのかは、研究の最前線でもまだ明らかにはなっていないのです。
ただ一ついえるのは、信長が死を覚悟していたであろうこと、義元の首を取ることができるとは、最後の瞬間までわからなかったであろうということです。しかし信長は、座して死を待つよりも、ほんの僅かに残る可能性に賭けました。
「死中に活を見出す」とは、このことかもしれません。こうした一か八かの大勝負は、誰の人生においても一度や二度は訪れるのではないかと思います。そうした時に、自分ははたして思い切ることができるかどうか。それは、その場に立ち至らないとわからないものでしょう。ただ、一歩を踏み出さなければ、局面は変わらないのも事実です。もちろん、やるべきことをやらず、すべて運任せの一歩では失敗するのは必然。しかし打てる手をすべて打ったうえでの、一命を賭した一歩であれば、桶狭間の奇跡が起こることもあるのです。