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分かち合いは工夫の歴史を語るに始まる
こんにちは、高本です。
今回は分かち合いについて考えていきます。これまでエネルギーを循環させるという話をしていました。で、もちろんこれも大事ではありますが、循環には出力と入力があって、つまりまずは出していくことになります。ここで言ってるのは、自分を起点にエネルギー循環を起こし、周囲を巻き込んで発展していくプロセスのことで、僕たちそれぞれが始まりであるということです。他の誰かや社会が作る流れになんとなく巻き込まれたいのではありません。
でもこれを安易に考えると、めっちゃ自己中でエゴの塊みたいなことになります。自分が生み出すのだから、好きなようにやればいいじゃないかと。でもそういうことでもありませんよね。この物理空間はみんなが一緒に暮らしている場所です。共生しているわけです。それが社会ですよね。そして人間は社会に生きる存在です。だから当然社会との関係も考えておくべきでしょう。
だから自分を起点とした循環の流れに乗って、社会にエネルギーが伝わり広がっていくというモデルというわけです。そこで改めて、自分がまずエネルギーを出していくのがポイントになってきます。こちらが動かないことには始まりもしません。
というわけで、その「出していく」ということに関して、分かち合いとはどんなものであるか、またどんな形が望ましいのか考えてみたいと思います。
関係はエネルギーの交換によって生じる
そもそもなぜ分かち合いなのかというと、それが社会との接点になるからです。分かち合いとは、僕たちが持ってるエネルギーを届ける、または共有することですが、これには負のエネルギーもあります。エネルギーを奪うというニュアンスです。
例えばブログで言えば、嫌々書いたり面白くない記事では自分自身の気分もよくないし、受け取った人も楽しくありません。それは時間が無駄になるわけで、その人からエネルギーを奪ったことになってしまいます。これは当然、健全なエネルギーの流れではありません。
もちろんブログに限らずあらゆるコミュニケーションは、エネルギーのやり取りによって発生します。テレビを見るのも本を読むのも人と話すのも、すべてエネルギーのやり取りです。そこでは時間や情報、感情、お金というエネルギーが交換されています。
むしろこれらの交換によって生まれるのがコミュニケーションとも言えるでしょう。エネルギーの交換によって誰かと誰かの関係は生まれるのです。
例えば物理学的には、力は素粒子の交換によって発生します。磁石で同じ極を近づけると反発するのは、そこに磁力が働いているからですよね。で、このとき磁石の間で、光子(フォトン)が交換されているのです。
イメージとしては水中に浮かんだビーチボールを相手に送り出すときの感じです。ボールを押し出した人はその勢いでちょっと後ろに流されますよね。受け取った人もその勢いでちょっと後ろに流されます。ボールの交換によって、お互いちょっと後ろに移動するわけです。これが磁力の仕組みということです。磁石がくっついたり離れたりするのは、素粒子レベルで見るとこんな仕組みになってるんですね。
つまり、関係性というのはエネルギーの交換によって生じます。これはマルセル・モースが『贈与論』の中でも言っていたことです。エネルギーという言い方ではなかったですが。
ただ、ここで交換されるエネルギーには質があるということです。負のエネルギーを与えることでも関係は生まれますが、つまらない話をする人とはもう会いたくはならないように、それでは関係は続きません。
かといって、必死で人を楽しませようとすればいいというわけでもありません。ブログやYouTube のために頑張って何か調べてまとめたり、派手な体験をしようとしても、それはエネルギーを消耗する行為で、「奉仕」でしかありません。必死で手に入れたものをしんどそうな顔をして渡されても喜べませんよねw
だから、まずは自分を満たして、それから分かち合うということなのです。自分自身のために動く中で獲得したものだからこそ、爽やかに送り出せたり共有出来たりするわけです。
大乗でいきましょうという前提の話
そしてこの「満たして分かち合う」という流れを、悟りに関して行ったのが釈迦です。釈迦が生まれた当時、その地域ではバラモン教がメインでした。バラモン教には、今のカーストのもとになる、バラモンをトップとした厳格な身分制度がありました。どの身分の家に生まれたか、というのがすべてということです。
でも、「それはおかしくね」ってことで、バラモン教に反対する人が出てきます。その人たちはどう考えたかというと、「人の価値は生まれではなく、努力で決まるのだ」というわけです。その努力とは、苦行かそうじゃないかの二種類です。
で、釈迦はその反バラモン教一派の一人だったので、最初は苦行をやることになります。でも途中で「なんかちがうな」ということで、苦行を伴わない瞑想に切り替えるんですね。すると、あっさり悟れてしまったと。あっさりかは知らないですけども。
本来はそこで終わりなんですが、 バラモン教の最高クラスの神が出てきて「周りにその悟りを教えてあげてくれ、俺じゃ無理やから」って頼まれるわけです。 最初は断ってたんですが、結局分かりましたということで、山を下りて他の人たちに伝えていきます。これが大乗です。 大きな船にみんなで乗りましょうってことです。みんなで悟っていこうってことです。
だから僕たちが普段やってることは、「みんなの代わりに修行して悟ろうとしてあげとんねん」って思っててもいいぐらいなわけですw 別にこの世の全てが分からなくても、ちょっと気づいたこととか面白いこと、できるようになったことがあれば、 それを共有して使ってもらったらええやんということですよね。
そんな言葉があるのか知りませんが、”部分的に悟れば”ちょいちょい山を降りてきてみんなで遊べばいいと思うのです。ずっと一人でやりたい人は、もうスリランカで上座部仏教やっててくださいって感じですよねw
この上座部仏教というのは、もともとの釈迦の教えに忠実な宗派ですが、一人で悟りを目指そうとする部分について、大乗仏教側が皮肉的に「小乗」と呼んだわけですね。でも実際はどっちがいい悪いではなくて、結局最初は一人で悟るしかありません。それは釈迦も言っていて、自分が示せるのは方法までですよと。
つまり釈迦のスタンスとしては、「この世界の精神領域に関しては、法則が分かりました。でも分かったからと言って何かが変わるわけではない。その法則を踏まえて、生活から「苦」がなくなるように修行をしましょう。そしてそれが瞑想をすることですよ」というわけです。そのやり方を筋道立てて説明はするけど、最後はお前がやるかどうかやでって話なのです。
だから、自分が悟ってその感覚ややり方を周りに説いていくという意味では、満たして分かち合うというのは、小乗→大乗ともいえるわけですね。
で、僕はインターネット上でこれを実現するということでメディアについて考えているので、今回もその文脈で見ていきますが、まず基本的にはネットでは発信しないと存在しないのと同じです。だから、その発信が分かち合いでありエネルギー循環になるような形で考えたいわけです。
そしてそれには条件というかコツがあると思っていて。
無限に調達できて誰かが喜んでくれるもの
さっき見たように、人からエネルギー奪う形になるとミスってるんですね。それを言うことで自分が気持ちよくなりたいだけなら、一人で山に籠ってたほうがいいわけです。だから多少は誰かが喜んでくれるとか、面白がったり役立ててくれるようなものを出力してゆきたい。
それはあれこれこねくり回して考えてもわからなかったりするわけですが、その中でも割と喜ばれる可能性が高めのものを今回は見ていきたいと思います。
それはまず物語なんですね。人はよくできた物語を聞くと嬉しくなります。脳には物語に反応する神経系統が組み込まれていて、実際に自分がその場面に直面した時のシミュレーションをできるということです。その物語から得た学びで将来の危険を回避しようとするわけですね。そのとき物語が不快に感じる構造だと、未来の危険に対して備えることができなくなりますよね。
生物として生き残るために、物語を面白く感じてその時間が喜びになるようになっているのでしょう。ちゃんとした物語をちゃんと話すと喜んでもらえるというわけです。だから具体的な内容はひとまずおいといて、物語的であるのは大事なことなのです。
そしてもう一つはこちらが枯渇しないということ。さっきも出てきたように、大前提として無理してやるのではないということですよね。僕たちの日常や人生をより一層面白くしていくために、分かち合いがどうたら~って話をしてたわけです。で、それをやっていこうとすると結果的に、社会や世界全体にも多少いい影響がある形になっていくものですよねってことです。だから別に頑張るものでも誰かにやらされるものでもないわけですよね。
ということは、余ってたり今後も溢れてくる物語が発信されていくのが、自然で持続可能的です。低コストで調達されるもの、もっと言えば普通に生きてるだけで溜まっていくようなものが望ましいわけですね。じゃあこの両方を満たす、物語的であり余り物でもあるものは何なのかということになります。
そこで、今回は「工夫」について考えてみたいんですね。
工夫は物語であり余り物なのです。つまり、僕たちが分かち合い、循環させてゆきたいエネルギーとして抜群に適しているわけです。
人は日常的に工夫している
まずは工夫が余り物である、ということについて考えます。
そもそも、人が生きるというのは猛烈に創造的であります。創造的というのは、人それぞれみんな工夫して生きてるってことです。僕たちが無事に生きていくのは工夫の連続なのです。
誰でもつらいのは嫌ですよね。だから普段の生活の中で、ちょっとでもつらいことを減らそうと頑張ります。不快を減らして快を増やそうとします。自分が生きやすいように環境や自分自身を変化させて調整していくわけです。
僕たちが普段していることは大体創造的なんですね。毎日5分机を片付けるのも、通勤の電車で本を読むのも、おかずが物足りないからふりかけをかけるのも全部工夫です。何とか気持ちよく過ごしていきたいのです。
例えば、僕は今こうして文章を書いていますが、これも言ってしまえば創造的です。自分の中にあるものを表現するという素直な意味の創造でもありますが、でもそれ以上に、ただ「書くこと」そのものが創造的なんですね。
だって別にただ生きながらえていくだけなら、こんなことしなくていいわけです。 動物としては。これで危機的状況を回避できるわけでもなく、寿命が延びるわけでもありません。でも今こうしているのは、結局それによって僕が生きやすくなるからなんですね。この時間が心地良くて、今日も明日も快適に過ごしたいからこんなことしてるわけです。
つまり文章を書くという行為は、いつの間にか発揮されている創造性ってことになるんですね。僕にとっては、不快を減らして爽快に過ごしていくための工夫でもあるのです。
あなたにも普段よくやっていることや、生活のリズムがあると思いますが、それは快適に生きていこうとする中で、自然に組み込まれていったものだと思うんですね。そうやって考えても、僕たちは普段から大量の工夫をしているわけです。毎日いつでもどこでも無限にやってて、しかも一生やり続けていくものです。
だから枯渇しない余り物を発信すると考えた場合に「工夫していること」は、まず一つ条件を満たしているわけですね。
でも工夫と言っても、生活のすべてを対象にするのは流石に範囲が広すぎます。特にどこに焦点を当てればいいのかわかりづらいです。ということなんですが、それはこの後見ていくとして、次は工夫の物語性について考えます。
工夫とは問題解決とそれに至るプロセスのことである
工夫は物語でもあります。
今見てきたように、僕たちは快適に過ごせるように日常的に工夫しているわけですが、それはつまり何か問題を解決しようとしてるってことです。生活の中でちょっと気になることや改善できる部分、もっと言えば人生レベルの問題についても、どうやってクリアにしようかと考えて取り組んでいきます。
つまり、工夫とは問題解決のことです。問題とセットになっています。じゃあその問題は何かというと、それを解決することでより快適に生きていけるものです。その解決策として、工夫があるわけです。
でもこう言うと、「じゃあ解答と工夫はどう違うのか」という話になりますが、「解答」というのは結論部分であって、一点の情報です。でも工夫はその結論に至るまでのプロセスも含んでるんですね。途中式も込みなのです。
仮に同じ答えだったとしても、「でもあなたはどう考えてそれにたどり着いたのですか」というのが工夫に当たります。どう考え、どう取り組み、どんな失敗を経て無事に解決したのか。大げさに言えば、その歴史を全てひっくるめたものが工夫なのです。
さっきの釈迦の話でもそうですね。釈迦は瞑想によって悟りましたが、最初は苦行を選んで頑張ってたわけです。でもそれは間違いで、途中で瞑想に変えてうまくいきましたと。つまり、めっちゃ工夫してるのです。恐らく瞑想を始めても最初はうまくいかなかったでしょう。
実際、そこから悟るまで7年かかってます。ということは、瞑想の体勢や集中の仕方など、基本的なことも含めていろんな工夫があったはずです。はずというか、それがあったから弟子たちにも指導できたわけです。
究極的には瞑想するだけだったとしても、それをそのまま伝えただけで他の人がちゃんと悟れるかは怪しいですよね。だから、人間には四つの苦しみがあるってことで「四苦」と言ったり、悟りを目指すための正しい姿勢として「八正道」って言ったりしたわけですね。
自分がさんざん寄り道して時間かけて工夫してきたから、悟るか悟らないかというゼロイチじゃなくて、途中の段階で伝えられること、伝えておくべきことがいっぱい出てくるわけです。「この通りにすれば悟れるで~」とだけ言われても説得力も面白みもないのです。もし一撃で悟れたのだとしたら、仏典に書くことないですよね。「悟る方法は?」「瞑想すること」で終わってしまいます。
だから、工夫は結論にたどり着くまでのプロセスも含めたものなんですね。 成功した一点の情報ではなく、その他に大量にあるであろう、失敗のルートという情報を含んでいるのが工夫です。そしてそこに価値があるわけですね。だから脳が喜ぶのです。
「それを選んでしまったらスタート地点に戻りますよ」とか、「それはUターンすることになるルートですよ」って教えてくれるからその危険を回避できます。「俺は『右、左、左』でうまくいった。だからこれが正解」って言われても、人によって能力も好みも思想も違うのだから、全く同じルートになるわけがありません。正解ではなく工夫という試行錯誤の歴史を伝えようとするから、聞いた人が参考にできてそれが喜びになるのです。
というわけで、工夫は物語であり余り物でもあります。僕たちは人に何か言う時、特に情報発信で言えば、何か完成されたコンテンツや整った理屈を提供しないといけない気がしてくるものです。そして、だからこそ発信できることがないと思ったり難しく感じたりもするわけですが、人に言うべきは結果そのものではないということですよね。
「工夫したこと」に価値があるわけです。成果物ではなくちょっとした工夫なんですね。むしろ、成果物とは小さな工夫のことだった、と言ってもいいぐらいでしょう。さらにこれは日常に溢れているものだから、最高の素材というわけです。
工夫のお宝スポット
とは言っても、僕たちは普段あらゆるジャンルの活動をしています。それこそ仕事でも勉強でも、趣味でも人間関係においても工夫をしているはずです。じゃあその中でどんな工夫でも分かち合うにふさわしいのかというと、もちろん別に悪くはないのですが、こういうものの方が望ましいという方向性は存在します。
それは比較優位を考えるといいです。他国との比較の中で、自分たちが一番効率よく生産できるものを輸出していけば、全員いい感じになりますねという発想です。魚と肉があったとして、魚を一杯取れるのに家畜育ててたらもったいないわけです。
もったいないどころか、世界にとっては損失です。隣の国でも牛は育つのだから、餌やりしてる暇あるならさっさと海に出ろって話なわけですwもしそれをやらなかったときに、最も損失が大きくなることに注力しろって理屈です。魚とれる国は魚、肉とれる国は肉を出していけばいい。それがみんなが幸せになるあり方ということですね。
これを人間に置き換えれば、普段色々やれることがある中で、周りと比べて一番生産できることを送り出していけばいいことになる。じゃあ自分にとって一番生産できるってどういうことやねん、という話です。
生産性とは、コストに対する産出量、つまりインプットに対するアウトプットです。人間にとってのコストは、どれぐらいしんどいか、どれぐらい時間かけたか。
つまり、最も生産性の高いこととは、同じことをめっちゃ楽にできる、または同じ時間でめっちゃ多く出来上がる、そんなものです。周りと比べて楽に多くできることに、ひたすら注力するのが全員にとっていいということになる。そして楽に多くできるのは、結局のところ好きでやりたいことです。そこで日々なされる工夫がお宝なのです。
工夫は問題解決に至るまでの物語のことでしたが、エネルギーの源泉の周辺では問題が出てきてもどうやって乗り越えようかと、常に注意が向いてるはずなんですね。注意どころか、すぐに解決に向かって動き始めるはずですね。むしろそれがおもろいわけです。
そうやって日常的に工夫してるから、楽に多くできるようになっているとも言えます。人より楽に多くできるということは、人がやってない何かをやってるということです。工夫するから、少ないコストで多くのエネルギーを獲得できるようになってるわけですよね。
人から見れば立派な努力と言われるぐらいのことをしています。だからちょっとそこに目を向けて、何をどうするためにどんなことをしているのか、 普段どんなことを考えているのか、どんな試行錯誤をしているのか、どんな言葉を検索しているのか、 それらを少し気にしてみるだけでいいということですよね。
例えば、僕は人生をちゃんと遊んでいくことに興味があります。で、そのためにエネルギーを循環させていきたいのです。その流れが大きくなって返ってきたエネルギーが、またさらに進んでいく燃料になります。
そうなると、自然と楽に文章を書けるように何とかしようとします。書きたいことがない、書けないということはエンジンが止まるということです。それは人生が止まるということです。だから、例えば書きたいことが湧き出てくるように工夫をします。
それが無理せず持続可能な形で人生をちゃんと遊んでいくための工夫というわけです。そしてその工夫の一つとして「分かち合い」というものを考え、今回実際にここまで書いてきたのです。
まとめ
というわけで、工夫は日常的にあふれ出る物語で、特にエネルギーの源泉の周辺に意識を向ければ、分かち合えることはいっぱいあるということでした。
最後に、少し話を戻しまして、工夫が物語だとすると、そこには人間性が出てこざるを得ないということになります。
ある人が、どんな状況でどんな気持ちになり、どんなことを考え行動して、その結果どうなったのか、というのが工夫という物語なので。
そして、そこに触れられるからこそ人の工夫は面白いわけです。
じゃあですね、生きることは工夫の連続で、工夫が問題解決とすれば、生きることは問題解決の繰り返しということになり、さらにそうして解決してきた問題や、そのアプローチの集合が人格ってことになるんじゃないかと思うわけですね。
そうなると、つまらない人間は、より快適に過ごすための試行錯誤をしようとしない態度が作り出すのかもしれない。
だってそこには工夫がないから。誰かから聞きかじったような答えしかもっていないから。人の魅力の根源である、一番味の濃ゆい、物語の部分がないのです。
だから僕たちは、行きたい場所に向かってどんどん工夫して、プチ悟りがあれば分かち合って、エネルギー循環タイフーンを巻き起こしながら、もっといっぱい人生を遊んでいきまっしょいってことですね。
そんなわけで、今回は以上です。お疲れさまでした。
高本。