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【将来】「飽き性」という悩み

私は新しいこと、がとても好きだ。常に知らないことを知りたくて、やったことないことをやってみたくて、行ったことない場所に行ってみたいと思う。今までは、好奇心旺盛で何よりだと言われていたが、これから社会人として成長し、自分のやりたいビジネスをやるためには、誰かを支えられる人になっていくためには、「ちょっとだけそこで踏ん張る」ってことが必要になってくるのではないかと思っている。
最近、「飽き性」な性格をどうしたものか、と考えるのだ。

常に新しいことにホイホイ行くのはいいところでもあると思うが、実は、同時に後悔していることも多くある。

高校生の時も部活だけだと物足りなくて、家ではギターの練習をし、一時期はギター教室にも通っていた。ボランティアに日曜日にいったこともあった。大学になってから私の「飽き性」は加速し、一年の時はサークルに4つ入ろうとしたがそんな体力はなく、2つにした。2年の時にもう一度3つ掛け持ちを試みるものの、また断念。一年の時はキャンパス近くの寮に住んでいたのだが、2時間半あれば通えるということで実家に戻った。しかし、2年の秋には実家住みで、サークルだけでは物足りなくて、ゲストハウスの住み込みバイトを開始した。で、それは楽しかったのだが、お金が貯まらず、もっと厳しい環境の方がいいのではないかという謎のストイックさを発揮し、冬からはwantedlyでみつけたインターンを開始した。で、今、また、海外に行きたいという理由で、そのインターンをまたもや辞めようとしている。
もちろん、どの時もきちんと事前にやめます、と言っているし、迷惑はかけていない。でもそんな感じでいいのだろうか、と思うのだ。

少し後悔が残っていることというとバイトが多い。
バーベキュー場のバイトももっとシフト入れて、もう少しだけ続けていたら、あの子と仲良くなれたかもしれないな、ゲストハウスバイトももうちょっとだけ続けられていたらもっと貢献できていたかもしれないな、そういう感じで思うことは度々あるのだ。

「あーちょっと飽きたかも」と思う時に一旦踏ん張ることで、自分は成長できるのではないか。
去年1ヶ月半ほどカンボジアでインターンをしていた時も、まだまだやるべきことはあったけど、そろそろ違うこともやりたいなと思ってしまっていた自分がいた。(あの時は元々大学の予定があったのでしょうがないが)ああいう気持ちになった時にあと1ヶ月やったら何か違うものが見えてきたかもなと思う。

自分が踏ん張れた経験ってなんだろうと考えると、やっぱり自分は大学受験だ。

それほど頭の良くない高校の中でも上の中くらいで、運動もその他の才能もなかった私は、先生からも親からも特に期待されていなかった。だけどそれを見返したい!なんかわかんないけどかっこいい大学に行きたい!と思いたち、一年半頑張ったら目標を達成できた。一年半の中では「疲れたな」と思うこともあったし、「高校生活楽しんどかないと勿体無いかな」と思ったこともあった。でも、どうしても受かりたい!見返したい!という気持ちでなんとか踏ん張り勉強を続けられた。受かった時は飛び上がって喜んだし、何より嬉しかったのは周りの人が「え!まじで」と驚いてくれたことだ。あまり期待していなかったであろう先生も、立派だと言ってくれたこと、期待を超えられたことが本当に嬉しかった。
ちなみにじじ(祖父)は「え?本当に〇〇受かったの?」と普通にしばらく怪しんでいた。

大学に入学してから、自分より頭のいい人、レベルの高い人が多すぎて卑下してしまうことが多いけど、私にとってこの大学に入れたことは人生が変わった、大きなことだった。

こういう私にとっての大学受験のような経験は、地味だし、時間がかかるし、結果が出るかわからない。

でも、それが達成できた時、終わった時の感動と達成感は人生でもう一度味わえたら嬉しいなと思う。だし、私が本当にやりたいこと、夢を叶えるためには、今まで経験してきた以上の「踏ん張り」が必要だということも想像できる。

前提として、私は「踏ん張ること」「頑張ること」が正義じゃないと思っている。

何も頑張らなくたって誰かに必ず影響を与えていて、生きていること自体に意味はないが、この世にいる時間には必ず意味がある。頑張れない人と気持ちを共有することで安心できる人もいるし、頑張れない人を手助けすることが生きる意味になる人もいる。最近の若者の「頑張らなくてもいい」「無理しなくてもいい」という生き方、私は賛成派である。

でも、自分がこの人生でやりたいことを叶えるためには踏ん張りも努力も必要。

それは理解している。
でも、でも、「頑張らなくてもいい」「諦めてもいい」ってことも頭の隅に思い出せるように置いとかないといけない、、併存難しいな。


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