16グラムのシロップは決して僕を殺しはしない
先日、読んだ本の中にこういうような主旨のことが書いてあった。
ミャンマーでは、自分の生まれた曜日に応じて守り神がいる。水曜日は午前と午後で分かれるから、都合8種類の神様がいることになる。空想上の生き物から、虎などの動物まで。その中で、木曜日生まれの僕の守り神は、ネズミだった。まだ近しい金曜日でさえ「天竺ネズミ」の中、シンプルなネズミ。なるほど、確かに僕はネズミかもしれないなと思った。それも手負いの、窮した鼠。
年に数十回となく、結構な長期に渡って精神的な不調の波がくる。ああ、ようやくこの嵐から抜けて、穏やかな晴れ間がきた、と思ったそのすぐあとに、また長い長い嵐がくる。いいかげんに航路を変えたいと、いきおい帆の張り方を変えたとしても、結局はいつもの同じ嵐がやってくる。
おそらく僕は、HSPというやつなんだと思う。むしろ、そうでないと、様々なことの説明がつかない。いつも手負いの窮した鼠。やたらと猫を噛みたがり、そのくせ自分の傷も深くなる。それを繰り返してここまでなんとか生きてきた。
当人からしてみれば、こうした這々の体で、今まで生きてこられたこと自体がすごいことだ。
張り詰めた糸を自らで切ってしまいそうなときも、右手のハサミを左手でなだめすかしながら、なんとかやりすごしてきた。
見えない葛藤、人しれない闘い、誰から見れば甘えで、彼から見れば言い訳だと言われても、こっちもこっちでいつ沈んでもおかしくないボロ船で、暗雲途切れぬ大嵐をやっとの思いでやりくりしてきたのだ。
僕の本体は、きっとそのボロ船の隅っこで小さく怯えているネズミに違いない。
そんな状況で手出しなんてされようものなら、猫でもなんでも噛んでやる。自滅したって構うものか。
この嵐の航行は、きっとボロ船の沈むそのときまで続く。
ネズミはその甲板を、これはそういうものだというしたり顔で、平然と走り回りたいと願っている。
僕の神様は、ネズミだ。