衣替え

 「六月一日は衣替えをするものだという古の教えを、私は母から教わったのですよ。」
 取引先の人と雑談している時にこんなことを言われた。50代くらいに見える取引先の企業の部長さんだ。今日は六月一日。今月、私の会社と共同で開催するイベントの打ち合わせでカフェに来ている。と言っても対面ではなく、個室をとってzoomで話している。幸い、特に懸念すべき点もなく1時間だった会議の予定は15分で終わってしまった。沈黙でお互いに気まずくなるのも嫌だし、かといってzoomを切り上げると仕事に戻らなくてはならないようで面倒くさい。リモートワークとはいえzoomやチャットは常に繋がっているのだ。六月の初日の今日は、青空が広がって風が涼しくて実に爽やかな日なのだ。この会議も仕事なのだが、まあ、会議が終わって会社のzoomに繋ぎ直すよりはマシだ。不幸なことにオフィスワークの束縛から解放されても、その「解放」の中身には「つながらない権利の保証」がなかった。むしろ手綱の長さが長くなっただけで24時間365日何かあったら電話やメールが来るようになった。
 「そうなんですか。なんで六月一日に決まっているのですか?」私は疑問に思って聞いた。
 「昔はね、小学生の制服が長袖から半袖に変わる時や、お巡りさんの制服が夏服になる時が六月一日だったようなんですよ。それで、校則や就業規則の厳しい時代だったからみんな襟を正して六月一日から夏服を着たらしいのです。」
 「今と違って、昔の六月はまだ寒い日も多かったでしょうね。」
 「ええ、小学生は今でもクラスに一人や二人は年中半袖半ズボンなんて子もいるでしょうが、そんな例外的な子は昔だって少なかったんじゃないかな。昔は今よりも涼しかったはずですし。」
 「最近は毎年暑いですもんね。イベントの時も水分補給しながら乗り切りましょうね。」…

 取り止めもない話をして残りの45分は過ぎた。会社に会議の報告メールを作りながら、私の頭は50年ほど前の六月一日に衣替えすることが決まっている世界に飛び立っていた。今に比べたらスマホもインターネットもない世界。ネット上の世界は並行世界のように急に拡大して、私はそちらの世界に行っていることの方が多いかもしれない。はじめのうちはインターネットと現実は切り離されていたのだろうな。現実が嫌になった人が隠れ家にできる空間だったのだろうな。50年前は文字通り家で一人の時はそれが隠れ家になった、20年前はネットの世界が隠れ家だった、今は…。

 今日は家に帰ったら衣替えでもしよう。

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たかみいと
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