國學院大学日本文化研究所編『歴史で読む国学』を読んで②
前回に引き続き、『歴史で読む国学』の雑感を述べる。
今回は松本久史先生がお書きになっている第2章から第4章を取り上げる。
まさに国学史の前半生に当たる時期だが、荷田春満から本居宣長まで、国学のバトンが脈々と受け継がれ、社会と連動しながら成長して行く過程を、松本先生は流暢な文体で記されている。
歴史上、帝国と言われた統治システムは世界中に散見される。しばしばそういった統治システムは柔軟性を備えている。だからこそ、広大な領域をある程度の期間統治することを許されたのである。
江戸幕府というシステムもその意味では「帝国」なのかもしれない。幕藩体制は、地方分権のシステムであり、統治者たる徳川政権は調停者として機能しており、全体としてフレキシブルな政治体制であった。それは、文化面でも同様であったようだ。後世、文治政治と称される4代将軍家綱以降の時期に文化的な機能も徳川政権下のシステムに組み込まれていった。特に5代将軍綱吉は、上方の文化を江戸に導入するという形で現れた。これが国学発展の素地であったようだ。統治システムの寛容さは、人々の交流も促す。荷田春満は江戸を拠点に広範に人的ネットワークを展開したらしい。あの赤穂事件ともつながるというのだから面白い。
意外や意外、武威の再興を目指したと評されることがある8代将軍吉宗の享保の改革の文教政策が、さらに文芸の時代をすすめた。平和な時代において、権力に箔をつけるのもまた文化だった。特に重視されたのが「礼楽刑政」という概念だという。政治の場で発せられる言葉や、儀式を彩る音、そういったものへのこだわりがこの頃高まってくる。言葉と音について探究する素材として、わが国には「和歌」があった。なるほど、国学史の前半生が「和歌」研究に華やかなのはそのためか。このような社会背景のもと春満の手から離れた国学は、賀茂真淵、本居宣長へ継承され、確立を迎えたと言える。
興味深いのは、この頃の国学と儒学の関係である。同じく「徳川の平和」を享受していたこの二つの学問はある種不可分の関係だったようだ。それが、宝暦事件を契機に距離ができ始めるという様相もまた面白かった。国学史を理解するために、当時の世相を的確に把握することは何より大切だということを学ぶことができた。
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