國學院大學日本文化研究所編『歴史で読む国学』を読んで③

第三弾となる今回は、第5章・第6章についての雑感を述べる。

この連続する二つの章は、一戸渉先生がご担当で、確立期を経て、国学がどのように広がっていったのかを、当時の様々な階層の人々の精神世界に目を配りながら、国学のさらなる飛躍の前提条件を整理してくださっている印象である。

ベネディクト・アンダーソンは、『想像の共同体』において、ナショナリズムの歴史的な起源について考察を行った。その中で、国民形成の推進に情報技術の発展が寄与したのだという指摘がなされている。それは、出版産業が国民意識の基盤を提供し、新たな想像の共同体の創出を可能にしたためだという論理からである。この「国民意識」に重要な役割を果たしたのが、共通の時間、空間の認識であり、それらを共有するための媒介が、言語だったのである。

日本では、言語のみならず「歴史」が媒介として機能していたように思う。日本は島国であるが故、もともと同一言語同一民族の国である。そのような条件のもとでは、想像の共同体の組織されるための条件も、ワンランク上のものとなるのだろうか。人々は、日本列島において形成された文化や歴史に深い興味を示していた。それが国学において、安永期からの時代に、同時多発的に、複線的に学問が進展する結果を生んだのだろう。まさに国学が多様化する時代であった。国学を志向する者は「県門」という組織を組んだ。江戸・京都・地方のそれぞれで「県門」が成立し、発展してゆく。その中で地域間での緊張関係や流動化が見られ、さらなる発展を呼んだ。その際、国学の拡大に寄与したのは、やはり出版産業であった。

実父に国学を重んじた田安宗武がいる松平定信が老中として政務にあたった時期に、政府内においても国学は浸透していった。和学講談所の設立や、定信の政府内での活動によってそれは進んでいった。特に、将軍に対して大政委任論と同型の議論を行っていることは象徴的である。同時期に天皇の御前においても本居学が講釈されていることは、国学の同時多発性を物語っている。まさに「復古」という、日本列島に住まう人々の共通の志向のもと、おのずから国学の発展が準備されていたのである。

ただし、この時期に成立した「大政委任論」はある種、日本にとってこの国のかたちを占うサイコロであった。「大政委任論」をどう理解し、どのように発展させるのかで、まったく異なった国のかたちを生むことになる。まさに、サイコロがどう転ぶか、賽の目がどの数字を指すのかで結果が変わってくるのである。

次回は、第7章から第9章について述べようと思うが、ちょうどこれらの章が、私の卒論と深くかかわるところであるので、僭越ながら自分の卒論の内容との対応関係を確認しながら、私自身の研究の内容をご紹介したく思っている。

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