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18年間の過食症 中編


歯医者になっても自由には なれませんでした。
”食べていかなくては行けない。”
その為には稼ぐ手段が必要でそれが私には”歯医者”というToolしか無かったのです。

恋愛も仕事もPrivateもボロボロの20代後半を経て自分の事を”歯医者だ”と言えるようになったのは高齢者歯科を初めて漸く患者さんに喜んで貰えるようになってからでした。

それまで自分の不器用さや、焦りや兎に角 歯科に全く興味が持てなかった、、その為胸を張って”自分の職業は歯科医師” だという事が出来ませんでした。
”歯医者の免許は持ってるけど、、、”歯医者と言えるのかどうか、、、。ずっと後ろめたさが有りました。

しかし高齢者歯科(積極的治療ではなくて保存的処置が多い)をひょんな事からやり始め入れ歯が物凄く調子良い、と言って貰えたり行くだけで喜んで下さる患者さんを見てその後ろめたさから漸く自分を解き放す事が出来たのです。

そしてそこから漸く演技のレッスンに通い始める事が出来ました。

実は28歳の時に24年振りに産みの母に兄の結婚式で会った事で先ず一段階目の過食の収まりを見せます。

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⇧ParisのFashion 雑誌の表紙から巻頭10P Interview付きで掲載されました^^ 嬉しい!それ以上にメイクさんや、PGさんや関わって下さったTeamに感謝^^


父とこの産みの母が幼稚園の時に離婚し(父の浮気による。笑)兄は母に、私は父に付く形で人生を歩んで来ました。

その間 (とても日本らしい風習ですが)実の母に一度も会うことは有りませんでした。
その理由は父は再婚し新しい母がいた事、又特に産みの母に会いたい!と思った事がなかった事、父と再婚した母の間には腹違いの妹や弟もおり一つの家族を形成していたこと。

そして特に産みの母に会いたいという気持ちも無かったものの、”会いたい”と口に出して言う、いえ、それ以前にその事について話す事は暗黙の了解で禁じられている様にも感じました。

産みの母の顔は実は覚えていませんでした。
父が育ての母と結婚しアルバムは綺麗に整理され産みの母が写っている写真は一枚も残っておらず。本当に明確に覚えて居なかったのです。

だから兄の結婚式に28歳で参加した時も初めは
”母だと分かるのか?”と不安でした。
でもDNAというか、血の繋がりは切っても切れないのか 会った瞬間に”この人が母だ”と明確に感じたのです。

父も母も特に相手の悪口を言って貶すことは全くしませんでした。ただ二人とも余りにも若すぎた。そして”時代”が ”いえ”が、周りが余りにも強すぎた。という事かもしれません。

産みの母に会いたい!とかそういう願望は殆ど潜在意識では気付かなかった私ですが会ったことで”私に居場所は有ったんだ。”と初めて感じる事が出来た様な気がします。

初めて”私だけを丸ごと愛してくれる存在” ”全てを話せる存在” を認識したのかもしれません。
実の母は実際には私を育てていません。反抗期も知りません。だから育ての親とは又別の距離感で会話が出来るのです。
例えば育ての両親にはお金を騙し取られたこと、お金を貯める為に歯医者をしながら祇園や銀座でもバイトをした事、ダメンスの才能に惚れてボロボロの恋愛をしたことは話せません。その理由は”親だから”。そして”一番近くて遠い存在だったから”

しかし産みの母にはその距離感が違うため上記の事を話しても大丈夫な気がしたのです。
同じ屋根の下に数日遊びには言っても長く住んだことも有りません。だからこそいい距離感が保てるのかもしれません。

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⇧同じくParis のFashion 雑誌に掲載されたもの。Pg @Lorenzp M/Yasu iijima

次に過食症が二段階目で治ったのは演技のLessonを開始してからでした。

私は常々、何故Hollywoodの役者達はあんな演技が出来るのだろう???と感じていました。”役を演じる”というより”その役そのものにしか見えない” あの演技はなんなのだろう?と。

そして調べて行くと”スタニスラフスキー”の”Method"という演技方法に行き着きます。
これは多分役者を目指した方なら一度は聞いたことの有るとても有名なもので簡単にいうと“カタチから入る”日本の古典芸能とは真逆にある”感情から作って行く”という方法でした。

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