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タカコイバナ

ベッドの中でにやにやとハイライト(いつからハイライターでなくなったのだろうと己の勘違いもとぼけてみせたい)をアマゾンのカートに入れ、ついでとばかりにはじめてのマスカラとビューラーも追加した、そんな深夜。ふっと思い出した。
大学時代の先輩のマスカラが緑色だったこと。

*

しばらくプーケットに行ってくるから。そう言い置いたきりほんとうに先輩は姿を見せなくなって、そろそろ二ヶ月が経とうとしていた試験期間のちょっとまえ。ばったりと廊下で出くわした。
思わず変な声をあげてしまった。
再会の歓喜のあまりではない。先輩の髪型はもともと思いきったマッシュルームスタイルだったが、その内側にくるんと巻いたところがくるんくるんと二重になっていてボリュームを増し、しかも全体がグリーンとイエローで鮮やかに染められていたのだ。まるで食べすぎのカナリヤ。もはや以前どんな髪色だったか、にわかには浮かんでこないくらいのインパクトに満ちていた。

「おー、久しぶり」

私の奇声など聞かなかったふりをしてくれたのかどうか、先輩は満面の笑顔でちょこちょこと寄ってきてくれた。身長一五四センチの私より低いひとは、同性でもなかなかめずらしい。

「プーケットって海じゃなくて美容院に行ってたんすか」

受け流してくれたかもしれないのだから追求しなければ良いものを、と今になって思う。でも先輩は私の軽口にもけろっとしたままで、

「そういうあんたも今日のはどこの軍服よ」
「旧ソです。古着屋で見つけちゃって」
「いいじゃん、かっこいい。でも私も超かわいくない?」
「かわいい超かわいい。で、どっちなんすか。プーケット?日本?」
「日本なんだなー。話のわかる美容師さんでさ」
「え、そんなのもう説得するしかないじゃないすか。すごい似合ってます。ほんとかわいい」
「でしょでしょ。ね、見てよ、マスカラも緑」
「えええ?」

顔を寄せ覗きこもうとしたところで、チャイムが鳴った。
やば、もう行かなきゃ、今度お茶しよ、じゃね。
口早に先輩が言い終えるまでにじっと視線をこらしていたから、確かにほんの一瞬、見えた気がした。緑色のまつげ。

そこから更に思い出した。
名前に関係する、なんかすごいことを。

*

私は大学の映画研究会に所属していた。入学した春の、一ヶ月だけ。この先輩は、そこにいたひとだった。

なぜ、映画研究会だったか。映画が好きだったから。
なぜ、やめたか。飲んでばかりだったから。

入会するときはまさかすぐに辞めることになるなんて想像もしていなかった。
入学式の後、サークル勧誘でにぎわうキャンパスを何とか蛇行し、映画研究会の受付に一も二もなく飛びこんでいった。

「すいません、新入生なんですけどサークル入れてください」

見学用の簡易テントには、何人か男の先輩がいて、ぼんやり退屈そうにしていた。けど、私の声にぱっと反応してたちまち居住まいを正した。にこにこと営業ふうに。

「どうぞ、座って。えっと、うちの誰かに勧誘された?」
「え?いえ」
「あれ、そうなの?じゃ自力で来たの?」
「そうですけど、何かだめでしたか?」

正直なところ、サークルに入るには何をどうするかなんて何も知らなかったので、不作法でもしてしまったかと不安になった。でもその先輩は手をぱたぱたと振って、

「全然だめじゃないから。えーと、じゃあどうしよっかな……あー……見学とかしてないなら、一応する?」
「いえ、いいです。やらなくていいなら。どっちにしろ入るつもりなんで」
「あ、そう?うん、じゃ、えっと……さっそくになっちゃうけど、書類あるから書いて」

差し出された紙には、日付、名前、学部、在学年数などの欄があった。
ペンケースからハイブリッドの黒を取り出し、カリカリと埋めていく。
その間、受付担当の先輩はちょっとよそみをして別の部員とおしゃべりをしていた。

「これでいいですか」

ひととおり書き終え確認もしたあとで声をかけた。
先輩はふりかえって、受け取り、目を通し、そして、ふいに表情がかたまった。
それがやがて解凍したかと思えば、慌ただしく二、三回、その書類と私を交互に見比べる。

「え?」
「え?」
「えっ?」
「あの、何かだめでしたか?」
「びっくり?」
「はい?」
「間違えた。どっきり?」
「はい?」
「え、ちょっと、えっ、うわ、なあおいこれ見ろよ、すげえ」

途中から先輩の声は部員さんたちに向けられていた。それまでも部員さんたちはちらほらとこちらの様子を伺っていたらしく、ここぞとばかりなんだなんだと期待をまじえつつ押し寄せてくる。
それからみなさん一様に、書類を目にした瞬間ぎょっとし、私の顔を見てぽかんとし、最後に「すげえ」と笑いころげていた。
わけがわからずなりゆきを見守るしかなかったところへ、受付の先輩が向き直った。くしゃくしゃに笑いながら。

「ごめんごめん」
「いえいえ。いえ、あの、何か」
「いや全然だめじゃないから。だめじゃないけど、名前がさ」

これ、俺の妻の名前だわ。

今度は私がかたまる番だった。

妻?
って言った?
つま?

「こいつさ、結婚してんの。二年生なんだけど」
「でさ、奥さんもこのサークルにいたんだよね」
「ていうかサークルで出会ったんだけどね?」
「俺の妻と君、漢字も読みもカンペキ同姓同名。うっそだろ。まじかよ」

先輩がたの話をまとめると、こういうことらしい。
昨年の新入生の中に、私と同姓同名の女の子がいた。
彼女はやがて同じく新入生の男の子とつきあいだしたが、ほどなくして妊娠。
いろいろあって退学して結婚して出産して、今は夫となったひとのご両親のもとで子どもを育てながら暮らしている。
そういうことらしい。

「まあ、だから同姓同名っていっても旧姓なんだけど、いや、もうまじびっくりした。だって出会ったときの名前なんだもん。そういえば俺の妻、こういう名前だったよなって」

びっくりしたのはこっちも同じというか、たぶん私のほうがちょっと大きかったかもしれない。

なぜかというと、ほんの数分間だけ、ちょっとこの先輩いいなと思っていたりしたから。

なんというのか、ちょっと木訥な印象というのか、がんばってるけど口べたそうというのか、あまりモテそうじゃないけど優しそうというのか、誠実そうというのか、わりとまじめそうというのか、でもクソまじめではなさそうというのか。なんというのか。
そういうのが私のタイプなので、理屈でどうとは今でも言えない。

単純に「なんかいいな」、それだけ。

数分後に妻帯者とわかって、文字どおり、はじまるまえにおわってた。

ということをさすがに口には出さずに、私も同姓同名って今まで会ったことないです、とかなんとか話題に乗っていたら、どうやら勧誘に出ていたらしい先輩たちが戻ってきた。ほとんどが二年生の女子で、その中に、のちに緑のマスカラをつける先輩もいた。
先輩たちはひとしきり事情を聞いておどろいたあとで、やっぱり最後は笑ってしまい、おかげさまであっという間に名前をおぼえてもらえた。

「びびった?大学ってこういうこともあるよ」

マッシュルーム先輩が私のまえで笑いすぎの涙をふいた。

「でもさあ、じゃあ呼び方どうする?」
「あー……なんか、ね」
「うちらは名前で呼んでたしね。あの子のこと」
「今は『夫人』だけど」
「じゃあこの子は未亡人とか」
「苗字でお願いします」

まったく恋がはじまりもしないわ、結婚するまえから先立たれたことにされかけるわで、大学ってすごいとこだなと身にしみる一日になったが、ふりかえれば良いというか、面白い思い出である。

*

既に書いたとおり、ゴールデンウィークが明けてすぐにサークルは辞めてしまったのだけれど、そこで仲よくなった先輩や友人とは交流が続いたし、学園祭にはサークルのイベントにもお邪魔をした。
その学園祭で、旧姓が同姓同名という、そのひととも会った。ベビーカーに赤ちゃんをのせて、遊びにきていたのだ。

「あなたが噂の同姓同名さん?はじめまして」

優しい声であいさつをしてくれたそのひとは、先輩といるとやっぱりしっくり来る気がした。

*

そのサークルには「一年間で十本、映画館で映画を観ること」というきまりがあった。私の当時の感覚では、五十本じゃなくていいの?とちょっと不思議だった。
けど、あの既婚の先輩には五本でも容易ではないようだった。
一時は、自分も退学して働こうと考えたのだけれど、中退でその場しのぎの仕事に就くよりちゃんと卒業して学歴を得てきちんとしたところに就職するほうが将来的に確実だからと、話しあって決めたのだという。先輩の実家は遠いところにあって、奥さんとお子さんとは離れて過ごしている。休みになれば会いに行く。映画館どころではない、というのが実状らしかった。
だから、前年の会誌に載っていた先輩の映画レビューは、それだけでもうレアだったのかもしれない。たまたま部室で見つけた、先輩の文章。

僕は映画で泣くことはめったにない。でもこの映画は例外だった。ちょうど妻が妊娠九ヶ月目だったのだ。

ヒュー・グラント主演の「9ヶ月」。
私がそれをビデオで観たのは、退部して一年以上が経ってからだ。

*

当時も今も、なんかすごいな、と思う。

入学してすぐに妊娠し、産むと決めたこと。それならばと、結婚したこと。旦那さんの姓になり、その姓である義父母と住むこと。地元からも大学からも、つまり旦那さんからも離れて育児をしていること。
私は学年が一年ぶん遅れているから、年齢は二つ上になるのだけれど、それでも二十代になったばかり。

すごいなあ。

そして、そういうことをオープンにできる場を持っている先輩もなんかすごいし、「俺の妻」と自然に語る先輩も、やっぱりなんだかすごい。
大学に入ってからおどろくことはたくさんあったけど、なにひとつこれを上まわりはしなかった気がする。
ひとつあるとすれば、「私って見る目あるんだな」ぐらいだろうか。
いや、そうでもないかな。その後、もうひとり、ちょっといいかもと思った先輩が実は裏で部長の彼女を寝取ったりしてたからな。私が退部した直後に明るみに出たらしいけれども、それはもうドロドロとした修羅場となりしばらく映画どころではなかったらしい。
となると早期脱出した私はやっぱり見る目がある、というか、読みをはずしていないというか、あのころから強運だったのか。

何にせよ、私が改名すれば、あのひとと同姓同名でなくなる。
そもそも同姓同名だった時期はお互い存在すら知らなかったわけで、だから、何がどう、なんて、きれいにまとめられずにこの話を終えるほかない。いつものことだ。

*

あれから二十年はゆうに過ぎた。
あの赤ちゃんはもう成人して、先輩たちも一段落してるころなのかな。
年をとるわけだよねとベタな感慨で肩こりを揉みほぐしながら、紫色のマスカラがあのころの名前でなく「たかこ」に届くのを待っている、そんな雨あがりの夜。
同じ名前だと同じひとを好きになるものなのかな。じゃあ、色も?
いやまあ、私は好きにならずにすんだおかげで未遂だから検証できないか。ほんとう、好きになるまえで良かったよね。だって学生時代の恋愛なんて生きるか死ぬかみたいになりかねないし。そっか、先輩がオープンにしてたのはそういうことでもあったんだろうなあ。あの若さで。やっぱりすごいなあ。さすがだなあ。
そんなことをつらつら考えては、ちょっとカエルの合唱に耳をすまして書く手をとめたりしている、もんやりしめった夜。
未亡人にすらならないまま、気ままにひとりで。
「たかこ」ひとり未満で。




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