裸で殴り合ってるからTwitterっておもしろいんじゃないか説
僕はTwitter大好きだ。Twitterを通じて、いろんな人と出会えたし、いろんな方をフォローして、いろんなことを知ることができた。
でも、なぜ、僕はこんなにもTwitterが好きなのか。ふとタイムラインに流れてきた、#シン・ウルトラマン の感想ツイートを読んで、その答えが見えたような気がした。
Twitterガチ勢のやりとり
人は、それぞれの言語能力、知識、センス、バイアス、価値観を持っている。しかし、普段はそれを隠していたりする。特に日本では、それら丸裸の自分を人前で出すことはあまりない。
一方で、人にはいろんな顔がある。僕は、職場では、ガチガチに鎧を着るが、気の合う仲間といる時は葉っぱ一枚だ。
多くの人は、いろんな自分を使い分けていると思う。平野啓一郎さんが書かれた『私とは何か』で語られている分人主義的な考え方だ。どれだけ丸裸を隠すか、丸裸のどの部分を出すか、使い分けている。
だいたい人は、丸裸の上に、ガチガチに鎧を着ているか、もしくは、葉っぱ一枚だけで大事なところを隠している。
Twitterガチ勢の人たちは、Twitterの中で、割と丸裸の部分が見えているように感じる。
不特定多数の中に晒されるという前提条件
ツイートは、140文字の文章の中に、ツイートする人の、言語能力、知識、センス、バイアス、価値観が表れている。
そして、ツイートは、読む人の言語能力、知識、センス、バイアス、価値観によって、いろんな解釈をされる。
すべては、不特定多数の中に晒されるという前提条件のもと、それらは行われる。
前提条件のもと、Twitterガチ勢の人たちは、言語能力、知識、センス、バイアス、価値観でもって、140文字を書いている。
しかし、なぜ?
おそらく、伝えたいからだ。伝えたいことがあるから、つぶやく。つぶやかざるを得ない。つぶやくことを我慢できない。つぶやきを聞いてほしい。つぶやいておく必要がある。
その人にとっては、不特定多数のTwitter内において、そのツイートを行う必要があるのだ。
そして、そのツイートに反対意見を述べる人がいる。その意見も、前提条件のもと、Twitterガチ勢の人たちは、言語能力、知識、センス、バイアス、価値観でもって、140文字を書いている。
僕はこれを丸裸で殴りあっているように感じる。
普段、鎧を着たり、あるいは葉っぱ一枚で隠している言語能力、知識、センス、バイアス、価値観でもって、殴り合っているように見えるのだ。
シン・ウルトラマンは駄作か?
タイムラインに流れてきた映画『シン・ウルトラマン』についての感想ツイート。おもしろいことに「良かった」と「駄作だった」と意見がはっきりと分かれていた。
駄作であることをわざわざ言うことについて、僕は、言わざるを得ない理由があるのだろうと推察する。我慢できないことがあるのだ。
駄作であることを伝える140文字には、もちろん、ツイートする人の、言語能力、知識、センス、バイアス、価値観が表れている。最高だ。
そして、それに対して、反対意見をコメントするツイート、もしくは、引用リツイートにも、言語能力、知識、センス、バイアス、価値観が表れている。
とはいえ、あくまでTwitter
丸裸の殴り合い。それは朝まで生テレビとか、討論番組的な、論調や声のデカさや権威による戦いではなく、じっくり磨いた140文字の戦いだ。そこがまたおもしろい。
そして、どんな人でもやりあう。ストリートファイトだ。さらに時に、それはバズを生む。時にそれは、興行収入につながるだろう。
多くの人の共感を得る、もしくは、反対意見を得る、そんなツイートでは、いろんな人のいろんな価値観を目の当たりにする。かと言って、全く興味を持たない人もいる。
これが社会の縮図であるなあとも感じる一方で、たかがTwitterとも思う。
Twitterおもろ。