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山手線や環七が海になる。シャムキャッツ「渚」は第二の自然だ

日常を過ごしていると、その時その場で足りない感情を埋め合わすように自然と聴いている音楽がある。
特にシャムキャッツの楽曲はそうだ。秋から初春、夕方に冷え込んできて人寂しくなったとき、笹塚から甲州街道沿いを歩いているとふと、イヤホンから「AFTER HOURS」をかけている。コロナ禍で一人家にこもっているとき、好きな人に会えなかったり元カノを思い出したりすると「逃亡前夜」に浸ったりした。

中でも「渚」という曲は私の人生に欠かせない風物となっている。

6月のある日にカラッと晴れ、陽射しがずいぶんと白くなったのを感じると、半袖の柄シャツを着るように「渚」をかける。

ああー、夏が始まってるなこれ。海に行きたい。視界に収まりきらない大きな大きな青色をぼーっと眺めながら、さざなみを耳にして思考を停止していたい。
なのにやらなきゃいけないことがある。海に向かうことができない欲求不満を、最寄り駅まで環状七号線を歩いているときでも、仕事場まで向かう山手線の車内でも、「渚」は海へ行ったような音の情景で忘れさせてくれる。

最初、エレキギターの淡いトレモロだけが響く。また一つ淡いリフが重ねって、マラカスが加わる。夏目さんの優しく伸びた声が入る。防砂林の道を歩きながら、だんだん潮の匂いがして、波音が聞こえていくるみたいだ。
ベースとドラムが入って弾みだす。すぐそこの海岸線が待ちきれず、足早になっているときの鼓動に近い。サビでギターが2本ともガッッと歪みだして、菅原さんたちのキレイなコーラスが重なると、視界がひらける。海だ。

4~6歳のとき住んでいた徳之島の海、大学時代に実家へ帰るたびに眺めていた奄美大島の海、ライター時代に悩んで一人ドライブで向かった辺塚海岸。いろんな記憶が「渚」を通して白い陽射しと結びついて、環七や山手線が海になる。4分過ぎると、すうっと波が引いていくように、イントロにもあったトレモロだけが残る。曲が終わると、さっきより気が晴れている自分がいる。
そんな都会での海開きを、夏を感じるたびに繰り返してきた。
記憶の中にある海の、確かな感触。その一瞬がほんの少しでもあるか、ないかが肝心で、「渚」はその海の感触を呼び覚ましてくれるのだ。

『ちぐはぐな身体』(鷲田清一)という本に、“「文化」とは自然の加工であり、それをあたかも自然のように錯覚させること、つまり「人為を第二の自然に変換することだ”と書かれてあって深く共感した。

シャムキャッツの楽曲たちは、衣服や料理や器のように、私にとって愛すべき第二の自然物なのだ。第一と違いがないくらい純粋に自然な人工物だ。
海がほしいときにただ波の録音を再生すれば満足するのではなく、すぐそこに海が待っているときの興奮と、目の当たりにしたときの解放感と、ぼーっと眺めながらまだまだ続く夏への期待までも、音で補完してくれる。

6月になった。今年の夏も、暑い日はふと「渚」を聴いて都会で海を思い出し、晩夏には再生頻度が減っていくのだろう。

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