「これ」を「そこ」で「ああして」おいては、もう通用しない
いつもありがとうございます。たむたむです。
本日は、僕自身も普段からとても気をつけていることについてお話しをしてみたいと思います。
先に結論から話しますと、「指示語を使って生活すると脳が劣化する」ということと「人に話しを聞いてもらえなくなる」です。
脳が劣化する
脳が劣化してしまうとはどう言うことでしょうか。
自分の見えているものまたは頭の中にあるイメージを具体的な言葉に結びつけられなくなってきます。なので日常的に言語化と言うものを習慣づけておくと良いですね。脳の中でイメージと言葉を繋ぐトレーニングを常に習慣づけておくことが大切だなと感じます。
例えば、自分の必要な物が会話相手のすぐそばにある場合なんかは、「そこのそれ取って」と言いがちです。(僕はよく言ってしまいます。)
そんな時は、ちょっと間を取ってもいいので物の名前を呼ぶ様にしてみましょう。だいたい名前がわかっていれば「目の前にあるテレビのリモコン取って」などと言えるでしょう。しかし、指示語をいっぱい使ってしまう場面は物の名前がわからないまたは忘れてしまった時ではないでしょうか。
そんな時は、その物の特徴を2〜3絞り出して相手に伝えましょう。
特徴の代表格は、色・形状そして相手からの距離感(目の前のとか、後ろにあるとか、2m右とか)ですね。あとは、もし目をつぶって触った時に感じる触感なんかを伝えるといいかもしれません。例えば先ほど出てきたテレビのリモコンを取って欲しい時には「目の前の黒くて、長細くて、ボタンがいっぱいついているやつ」っていうと同じ様なものがない限りは、「目の前の黒くて、長細くて、ボタンがいっぱいついているやつ」に該当するものを取ってくれるでしょう。
物質的な物であれば言語化するのはそんなに難しくないでしょう。相手がわかりやすい様に的確に伝えるということをおざなりにしなければ、あとは日常的に意識をするだけです。
それとは別に感情と言うものはとても言語化しにくいモノなのでさらに意識的に取り組む必要があると思います。
感情の抽象的な表現の代表格としては「すごい」「やばい」ではないでしょうか。どんな感情も大抵この二つで表現できてしまいますよね。なのでこの二つよりは「喜怒哀楽」で伝えられたらきっとわかりやすいですよね。
もっと具体的に表現したい時は、過去に同じ様な感情を感じた時の例え話がいいと思います。話は長くなってしまいますが「〇〇で××しちゃった感じ」みたいな具体例の方がわかりやすそうだし話しのキャッチボールもスムーズになりそうな気がするんですよね。「〇〇はマジヤバかった」だけだと「そうなんだ」だけでなかなか共感しづらそうですよね。話す人も聴く人にちょっとした配慮をしてあげるだけで、自分の伝えたいことが通じます。
ここまでは、自分自身の脳が劣化してしまうので、脳を使う習慣をつけると結果的にコミュニケーションも円滑に進むよと言うお話しでした。
人に話しを聞いてもらえなくなる
普段から指示語が多いなと感じる人に共通していることは、話し手側の視点や視座でしか物をみていないなと言うことです。会話における相手への配慮ができなくなる、つまり利己的になってしまうと言うことです。
「話し上手は聞き上手」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
相手に話しを伝えるためには、相手が自分の話しを受け取れる器をもっているかということを探らなければいけません。「自分が伝えようとしていることの前提知識はあるか?どうおもっているのか?」など情報を引き出しながら自分の伝えたいことを相手に合わせてカスタマイズしていく感じになるでしょう。
利己的に話す人は、聞き手がどれだけ聞いてくれているかなどの反応を確認することは少ないと思います。むしろ「なんでわからないんだろう」とさえ思っちゃうかもしれません。
僕自身も日々仕事で気をつけていることは、相手に「なんでわからないんだろう」と思った時は、自分の説明が悪くて伝わってないのだと考える様にしています。「自分の説明が悪い」とした方が改善の余地もありますしね。聞き手を変えるより自分を変える方が遥かに簡単ですよね。「わかれ、わかれ〜」と念を送るよりも、聞き手と対話しながら理解度を探ってわかる様に話しを伝えることの方が良いことは、みなさんきっとわかることでしょう。
そして、日常的な対話を積み重ねていくと少しずつ、説明が簡素的でも伝わる様になります。また、叱る時や褒める時にしっかりと思いが相手に伝わることでしょう。逆に言えば、対話を積み重ねてないと、いざという時の大事なことも聞いてくれなくなります。なんで聞いてくれないかと言うと、相手にとっては「いつも自分の話しをきいてくれない」からです。
まとめ
どうでしょう?「あれ・これ・それ」を使わないように心がけるということは、大切な時間を割いて自分の話しを聞いてくれる相手への心遣いということですね。
日本人という大きな括りのはなしになってしまいますが、同質性が高く、同じ様な背景で生活をしている人しかいなかったし、そしてもともとすごいクローズドなコミュニティーのなかで生活をしていました。なので、暗黙の了解や、所作から感じて行動するみたいな非言語的な伝え方でも通じていた時があったのだと思います。そこから生まれたのが「男なら〇〇」や「仕事は見て覚える」と言う一元的な価値観だと思います。
ただ、多様化してきた社会構造の中では、自分を基準として物事を考えるより、相手の立場に立って思いやりを持った対話というものが結果的に自分を守ることになるかと思います。
利己的に利他的行動をするということは、良いことだと僕は思います。