僕らの世界には、すでに「オフライン」など存在しない(あるいは、「マトリックス」は今でも「幸福な悪夢」なのだろうか)
1999年といえば、ちょうど大作映画の谷間にひっそりとウォシャウスキー兄弟(いや、今や姉妹でしたか)の「マトリックス」第一作目が公開された年です。時代は世紀末。7の月に恐怖の大王アンゴルモアが地球にやって来るとか来ないとかで、世間は大盛り上がり。ちょうどフィンチャー最高の傑作「ファイトクラブ」が公開された年でもあります(確かそうでしたよね)。そんな喧しく不穏な最中、当時はまだ無名だった監督作品ということもあって、「マトリックス」の公開前にはあまり大きな宣伝キャンペーンはなかったはずです。僕自身も何故この映画をわざわざ封切りの日に見たのかよく覚えていないほどですから。でも、あの「マトリックス」を初めて見た時の衝撃は未だに自分の中の「映画鑑賞体験」としては特異なもので、「ああ、世界はもしかしたら21世紀になって変わるのかもしれない」って思えるほどに、その衝撃的な映像体験と、そして物語内のアイデアに刺激を受けたのでした。
もちろん、その後21世紀に入っても、すぐには何一つあまり大きな変化はなかったように思います。40歳くらいの皆さん、そうですよね?「マトリックス」が見せてくれたような「未来未来した未来」なんて、地続きの現実にはまったくなかったんですよね。ま、それはさておき、「マトリックス」に戻りましょう。
「マトリックス」という映画の根本的な構造には、世界はコンピューター(AI)によって支配されているという、今ではもはやありふれている設定が採用されています。古くは「2001年宇宙の旅」でもすでに見られたコンピューターの反乱のモチーフは、「ターミネーター2」においても引き継がれ、そして「マトリックス」でもほぼ同じような構図が引き継がれました。どの映画においても「人間はすでに不要な存在である」と、高度に発達したコンピューターたちが判断を下す。実際の社会においても、例えば先年亡くなった偉大な宇宙物理学者であるホーキング博士が、AIの反乱の危険性について指摘していますし、実際「人間を滅ぼす10の未来予想」的な話が展開されるとき、大体6位あたりに「コンピューター(AI)の反乱」が上げられたりします。言ってみたら、ものすごくポピュラーかつ、ちょっとだけ退廃的な予感さえ感じるような、ドラマティックな「人類滅亡」のクリシェ、それがAIの反乱というやつなんでしょう。エイズもガンも放逐しつつあり、一方宇宙人はどうやらまだまだ来そうな感触もないってんで、もう一度人類は、総力を上げて戦うための「外敵」がほしいのかもしれないなと思います。おそらくは、AIという単語に投影されているのは、僕ら自身のうっすらとした自己破壊欲求なんでしょう、そんな気がします。
閑話休題。一見ありふれた設定の「マトリックス」において、一つ独特の面白い設定があったとするならば、それは、人類に取って代わって地球を支配しているコンピューターを維持するための動力が「人間の生体エネルギー」とされている点でした。そしてそのエネルギーを人間から取り出すときに、最良の効率を出すために、人類は共通の夢を見させられているんですね。その強制的に見せられている「共通の夢」こそが、AIたちが作り出している「マトリックス」と呼ばれる仮想空間という設定なんです。人類はいわば、コンピューターたちにとっての「電池」の役割を果たしているというのが、物語中盤あたりで明らかになります。
主人公のネオたち(Neoという単語はOne=救世主のアナグラムであることは、この時代らしい「暗号解読趣味」だ)は、この人類が見させられている「共通の夢」である「仮想世界マトリックス」を破壊して、眠る人類たちを目覚めさせるという役割を果たそうとしています。そしてその目的のために、荒廃した本当の現実世界(核戦争のために地球は荒廃しています)から、何度も仮想空間「マトリックス」の中に入っていきます。そのためには一旦眠らなくてはならないんですね。そして自分たちの意識を仮想空間に接続するために、どうやら脊髄あたりに作られた生体USBデバイスみたいな部分から、ネットワークにログインしなくてはならない。僕が惹きつけられたのは、その部分。脳が直接、データの遣り取りをするアウトプットデバイスに直付けされているという点。なんてラディカルなんだと、ゾクゾクしました。映像もなかなか刺激的で、明らかにある種のファロス信仰的な尖った接続デバイスを、首の後ろ部分にぶっ刺します。僕らがUSBをぶっ刺すときに無造作にやるようなあんな感じで。そうやって、主人公たちは「情報体」となって、何度も仮想空間マトリックスへと入って戦うんです。
そんなサイケな展開の中で、主人公側の仲間の一人、サイファーと呼ばれる人物が、主人公ネオたちを裏切るというシーンがあります。そのシーンでサイファーは、敵側のエージェントたちが準備した、超豪華なレストランで肉を食いながら、こんな事を言います。
「この肉も、実在しないんだよな?」
そう、サイファーが食べる肉も、そして準備された超豪華なレストランも、コンピューターが作り出している「夢」でしかないことを、サイファーはすでにわかっているんです。そしてこう一言言う。
「プラグを外されて9年、俺は理解したよ。”無知は幸福"」
サイファーはつまり、荒廃した現実世界を知って絶望するよりも、マトリックスが見せる楽しい夢のほうが、仮にそれが虚構であったとしても、それに気づかなければ幸福であるということ言いたいのです。厳しい現実世界が課すつらい宿命を生きるよりも、マトリックス内で幸福な夢を見させられているほうが、生きている意味があると判断して、主人公たちを裏切ることになるんですね。
20年前、このシーンを見たまだ20代に入ったばかりの僕は「なんて卑怯なやつなんだ!」と憤慨したものです(まだそういう青臭い発想が僅かに残っていた時期です)。初めて見て以降、折に触れて僕は「マトリックス」を見返しているのですが、その後30代になった頃、サイファーの判断に対して、そこまで厳しい態度は取れなくなりました。コンピューターによって「夢見る電池」に貶められている人間というのは、確かに外から見たら悪夢かもしれないけど、目覚めたらさらにひどい「現実」が待っている以上、まだしも「幸福な悪夢」にいるという選択をするのも、人間としてはありなのかなと、そんなことを考えるようにもなりました。だって「夢見る電池」たちは、主体的な観点からは「ささやかな幸福」を生きているのですから。我々が今、多少の不満を抱えながらも、「ささやかな幸福」を享受しているのと、それはあまり変わらない経験のはずです。
でも40代に入ったころ、それがいつだとは明確には言えませんが、明らかに世界が「それ以前」とはもう違った世界線にすでに入ってしまっていたことに気づきました。僕らは確かに、あの20世紀までの絶望的に長閑な世界とは、質的に違う場所にいる。それ以降にロールバックできないポイントに我々は来たらしいと。この我々が今生きる世界線においては、この「マトリックス」の見せた「悪夢」は、むしろもう目の前に近づいてきているんです。そして、映画においては「否定すべき未来」として露悪的に書かれていた世界観は、むしろ本当の意味での「現実」になりつつあるんじゃないかということでした。そのことを感じたのは、『アフターデジタル』という本を読んだからです。
帯を見た瞬間に、即購入を決めたのだけど、本の内容はたった一つこのことだけが、豊富な実例とともに伝えられます。つまり、「すでに世界には"オンライン / オフライン"という、境界線自体なくなってしまっている」ということです。それどころか、この本が伝えるのは、「すでに世界の基盤はオンラインである」ということなんですね。mixiで"ハンドルネーム"を使っていた頃から見ると隔世の感があります。今やTwitterでさえ実名でやってる人も沢山いる時代にふさわしい内容で、その強烈なパラダイムシフトの感覚は、この数年来、モヤモヤと感じていたことを明晰に描き出しています。僕らの世界には、すでに「オフライン」など存在しない、まさにそのとおりです。
アフターデジタルに関しては刺激的な文章がいくつか出てきます。以下のいくつかの引用がそれです。
・モバイルやIoT,センサーが偏在し、現実世界でもオフラインがなくなるような状況になると「リアル世界がデジタル世界に包含される」という図式に再編成されます。こうした現象の捉え方を、私たちは「アフターデジタル」と呼んでいます。
・「デジタルツールという言い方がありましたが、もはやリアルのほうが「ツール」になります。
・「そんなのはリアルじゃない!」と言われがちですが、アフターデジタルの論理で生きている人にとっては、デジタルに拡張された世界自体がリアルなのです。
すべて藤井保分・尾原和啓『アフターデジタル』より引用
21世紀に入った時点ではその片鱗が僅かに見えていた、オンラインとオフラインの逆転、あるいはオフラインの消失という事態は、20年前にマトリックスにおいては「悪夢」として描かれていた世界に、人類が徐々に近づいているということを意味します。
今や北欧のスウェーデンでは、公共交通機関に乗るときには、iPhoneのID決済さえ使わずに、体に埋め込んだチップによって支払いを済ませることができます。その観点から見ると、iPhoneよりもさらに身体に近いデバイスであるApple Watchでの決済さえ、すでに古く見えます。つまり「身体との融和性」という観点において。
今のこの技術の行き着く先は、おそらく人間の生体データの全てのデータ化であり、そして究極は脳と意識のデジタル化なんでしょう。僕らはあと百年もすれば、意識を「データ」へと置き換える技術を、生まれてすぐに脳内のどこかにナノチップとして搭載する時代を迎えるのかもしれません。そして我々の意識は、生まれてから死ぬ時まで完全にオンラインと接続されて、自分自身でその「意識」をモニタリングさえできる。もしかしたら「マトリックス」で描かれたように、「見たい夢」さえ見られるようになるかもしれない。そのような世界が来た時、果たしてそれは「悪夢」なのかと、僕は今日、ふと感じたんです。
20年前、映画「マトリックス」において、荒廃した現実世界を裏切り、「無知は知なり」と嘯きながら、コンピューターの見せる「幸福な夢の世界」へと戻っていった裏切り者のサイファーですが、むしろ彼の決断は極めて21世紀的だったと今では思うんです。僕らはもうネットの無い世界にも戻れないし、一度キャッシュレス決済の便利さを体験したら、二度と「コインとお札の世界」には戻れない。Apple Watchがもたらす様々なヘルスケアシステムになれると、それなしではもう「走る」ことさえできない。だって、自分がやったことを情報としてトラッキングしてくれないなら、走ったことの「意味」が見えなくなるから。こうやって僕らは、多分自分の身体や生きる世界を少しずつ少しずつ「情報」へと変換しているというのが、今21世紀前半で起こっていることです。その領域は、これから加速度的に拡大していくことでしょう。
そして一方、僕らが基盤としてきた懐かしき「オフライン」の世界、地面があって、海があって、空があるこの現実の世界は、どうやら徐々に滅亡に向かいつつある。地球は毎年熱く(暑く、ではなく)なっていて、100年後には平均温度は6度あがるとされています。となると、日本の夏の気温は大体45度くらい。最高気温は50度とかのレベルでしょう。人が生きる気温としては極めてキツい状態になることは、ほぼもう避けられない運命のようです。つまり、映画「マトリックス」で描かれたような、人間にとってリアルに生きることがあまりにも過酷な「現実」が、映画の中の悪夢ではなく、まさに文字通りの現実として我々の前に展開される可能性まであるということです。核戦争なんて起こらなくても。
まるでそれを予感でもしているように、我々人類は急いで「情報・データ」になろうとしている。まるで進化の方向の正解はそちらにあるんだと、我々人類という種の集合意識が告げてでもいるかのように。映画「マトリックス」の主人公たちは、そのような状態を「悪夢」とみなして、コンピューターの支配を破壊し、人類に「目覚めよ!」と呼びかける。肉体を、現実を、世界を取り戻せと。たとえ苦しくとも、現実世界で生きることこそが、人間の生きる道だと。
でも今、一つ一つ自分の「肉」を切り売りして、iPhoneのヘルスケアアプリやキャッシュレス決済のアプリを立ち上げるたびに、世界は確かに便利になりつつある。これは果たして、あのサイファーが夢見た「幸福な悪夢」なんでしょうか。僕は、どうもそれとも違うような気がしているんですよね。
もちろん、答えはまだ良くわからないんです。これは悪夢では無いにしても、これは「望ましい現実なのか」ということもわからない。ただ、僕は感じるんです。20年前に「全然来てないやん」って思ってた未来は、今すでにもう、戻ることができない状態で来ていました。我々はもう、「それ以前」を思い出せないでいる。ネットの無い時代、スマホの無い時代、Apple Watchが無い時代、Bluetoothイヤフォンが無い時代、1万円札が輝いていた時代。そんな時代は、多分もう二度と戻って来ないんですね。それはもう、違う世界線の話であって、我々の世代が忘れた途端に消え去る運命にある。いわば絶滅した過去なんです。
このことを理解していないと、これから未来において、我々はトンチンカンな行動を取ることになるんじゃないかって感じるんです。一言で言えば、来るべき時代のマインドセットを構築しなきゃ行けないんじゃないかって、どのジャンルに生きるにせよ。だってもう我々が生きる世界には、懐かしい「オフライン」は存在しないのだから。
そんなことをこの一ヶ月考えていました。
ずいぶんご無沙汰してました。夏はまた、なんやかんや色々書く予定です。どうぞよろしく。