「追究する問い」がないと「作品の魅力」は見えないものなのか
先日、私が主宰する「学びの空間研究会」(空間研)のWEST例会で、小3国語教科書の物語文「まいごのかぎ」(斉藤倫・作)を用いた活動を行った。空間研でいつも行っているような、演劇的手法を使って作品の世界を立体化し味わっていく活動だ。そこでの経験があまりに強烈で、後に、ネットに出ていた「指導アイデア」を見たときにショックを受け、昨今流行りの「問い」「探究」などを前面に掲げる単元&授業構成のあり方を問い直すことになった。
…という話をする。以下、長文注意。
空間研例会での「まいごのかぎ」の演劇的手法を用いた読み合わせは、べらぼうに面白かった。
三重大の学生さんが卒論で扱ったことに端を発してこの作品を取り上げたわけだが、私自身、本文を印刷するときにざっと目を通しただけ、しかも、私のうっかりで最後の1頁が脱落している状態での活動だった。
そのため、極めてシンプルに、私が地の文の語りをナレーターとして引き受けながら、本文中に登場人物が出てきたら誰かにその役になってもらって、動いたりセリフ(と本人の心の声的な地の文)を読んでもらったりして、読み進めた。場面場面で区切って、同じことを5~6人のグループに分かれて自分たちでもやってもらった。
冒頭の「ぱりっとしたシャツのような夏の風」に「?」となったときには、「じゃあいろいろな風を体を使ってやってみましょう」と言って、「じめじめした風」「ビュービュー吹く風」(そしてもちろん「ぱりっとしたシャツのような」風も)などになって動いてもらい、「うつむきがち」に歩く「りいこ」をそこに続けた。
「りいこ」が学校の図工の時間でお絵かきしている場面で「うさぎ」が登場するところでは、「うさぎ」役の登場に「実際にうさぎが現れたわけではないんじゃない?」という話も出たが、「いや、りいこの目には見えてるはず」ということで「うさぎ」役を残した(これが後の場面で効いてくることになった)。
「りいこ」が「かぎ」を拾って、「どんな人が落としたのかなあ」と「あれこれと思いうかべ」る場面では、4人ほどのグループで「心の声」をやってみた。「大きなお城の鍵かなあ、そしてその鍵を開けたら○○な部屋が広がって…」と「りいこ」の妄想の暴走っぷりがここでも現れた。
「さくらの木」「ベンチ」「あじのひもの」に「かぎ」をさしこんで回すところももちろんやってみた。「さくらの木」から「どんぐり」がばらばらと降ってくる場面の迫力を体感したし、「ランドセルでふせぎながら」のふせぎ方について議論になったし、「さくらの木のかぎじゃなかったんだ」に「そこか!」というツッコミが飛んだ。「ベンチ」が歩き出すのはそれだけで爆笑ものだったし、「りいこ、けっこうなこと起きてるはずなのに、冷静。実は楽しんでる?」みたいな疑問も湧いてきたし、「かぎ」をさされなかった「あじのひもの」役からは、「飛んでいったあじのやつがうらやましい、うらめしい!」という感想が複数出た。
「バスていのかんばん」の「かぎあな」を前に迷うところでは、「善悪の回廊」の技法で、「かぎをさそうよ」「やめとこうよ」の両方の立場からの声をささやきあった。「十何台も」の「バス」が「おだんごみたいにぎゅうぎゅうになって、やって来る」ところも、参加者を「りいこ」役と「バス」役の半分ずつに分けて、交代で実際に行った。「バス」が迫ってくる怖さ、「ファ、ファ、フォーン」と「バス」がクラクションを鳴らして踊り出すところで一挙に楽しくなる感覚も体感した。
最後の1頁が欠けていたのは、それを逆手にとって、「りいこ」の「そして、はっと気づいたのです。もしかしたら、あのさくらの木も、楽しかったのかもしれない」以降の部分をグループに分かれて想像して演じてもらった(その後、実際の本文は三重大の学生さんに音読してもらった)。3つのエンディングが生まれたが、どれもとても興味深くかつ「ありそう」で、実際、「うさぎが再登場する」「かぎが消える」といったモチーフは発表のなかにも現れていた。また、「りいこ」が「自分はまちがってなかったんだ」とほっとするというテーマも通底していた。
おこなったのは、作品の世界をていねいに想像し、その世界に入り込むこと。
それで、めちゃくちゃ笑ったし、いろんな疑問が湧いてきてみんなで話し合ったし、シュールなお話を扱うことの面白さを実感したりもした。
(ここまでですでに長いですが、この投稿の本題はここからです。)
さて、こうしてハッピーな気分で活動を終え、facebookの投稿を書くために「まいごのかぎ」でネット検索した(作者名を確認したかった)。そのとき目に入った「まいごのかぎ」の指導案やら指導事例やらを見て、絶句することになった。
ものすごくつまらないのだ。
もちろん、指導案はあくまでもプランでしかないから、実際の教室では、楽しいやりとりも起こり得る、あるいは実際に起こってもいるだろう。
しかし、少なくとも、指導案から透けて見える教材観や指導観に対しては、頭を抱えることになった。
例として取りあげるには忍びないのだが、具体的に話をするほうが伝わりやすいと思うので、ここで1つ例を取りあげる。ただし、この特定の1つを糾弾することが私の本意ではないし(むしろ問題にしたいのは、ここに現れている昨今の流行りの学習像のほうだ)、後で述べるように、私自身、考えさせられる部分がある。
こちらの「指導アイデア」。
授業の構成を端的に示した図がこちら(上記サイトより)。
要は、初回の通読のあと、「最初と最後の場面」を比べて、「しょんぼり」が「うれしくなって」になっていたり、うさぎが再登場していたりということをもとに、「どんなことがあって、りいこは変わったのだろう」「『うさぎ』はなぜもどって来たのだろう」などの「追究する問い」を立てて、学習活動を進めていくというものだ。
現在推奨されている国語科の授業づくりなどと照らし合わせて、「何も間違っていない」展開だ(何より、この「指導アイデア」自体、「文部科学省教科調査官監修」を謳うものだ)。
が、私にはどうにも違和感がある。
こうした授業構成のもとで、今回私や例会参加者らが体験したような、シュールな出来事を愚直にたどることにより見えてくるおかしみに笑い転げたり、そこでの「りいこ」のちょっとズレた反応にツッコミを入れあったり、最後の場面まで進んだときに強烈な自己肯定のメッセージを感じて感動したり、といったことが起こるとは、どうしても思えないのだ。
この違和感は何なのだろう…と考えて、一つ思い至ったのがコレだ。
この「指導アイデア」では、昨今の「問い」やら「探究」を重視する単元構成にのっとり、「どんなことがあって、りいこは変わったのだろう」などの「追究する問い」を立てて学習を進めていくという流れになっている。そして、それによって、「りいこ」が「不思議な出来事と出合って」いく「過程で心が揺れる様子を、場面ごとに丁寧に読み取ることを通して作品の魅力に迫」ることができると想定している。
本当にそうか?
「作品の魅力」とは、そうやってわざわざ「追究する問い」を立てて探究していかなければ見えてこないほど、ヤワなものなのか?
別に、そんな準備などなくても、本文をていねいに読んでいくだけでその世界に引き込まれ、頭の中にいろいろな考えがうずまく、それこそが「作品の魅力」ではないのか?
少なくとも、私が空間研参加者らと経験したのは、そういうものだ。
もちろん、あらためて明示的に「問い」を立てて探究する活動を行うというのは、十分ありだと思う。思いっきり作品のおかしさ、シュールさを(演劇的手法であれ他のやり方であれ)体感したうえで、「いやー、面白かったねえ。この面白さってどこから来ているんだろうね。本文を探究していってみよう」みたいにつながる流れだ。
それなら分かる。
けれども、最初から「追究する問い」をもって本文を読んでいく、それによって「作品の魅力」に迫ろうとするというのは、何か違うのではないか。
まず最初に本文をしっかり楽しんだらよいのに、と思う。
「問い」やら「探究」やらの学習活動を組まなければ「作品の魅力」に行き着けないと考えるなら、それは、教育関係者の傲慢ではないか。
別の言い方をすれば、これは、作品が手段視されることへの違和感でもある。
作品が「問い」を「追究」するための手段になりさがってしまう。
そこに私は、作品への敬意の欠如を感じる。
(補足しておくと、最初から別の目的のために作品を手段として使うなら、それはそれでありだと思う。作品そのものの魅力とはいったん離れて、文法事項を扱うためにある作品の本文を用いるといったこと。もちろん、その場合でも、一定の敬意は必要になるだろうが。ここで私が問題にしているのは、作品が、「作品の魅力」を見出すための手段として位置づくことのおかしさだ。)
そして、この件が私にとってショックだったのは、むしろ私は、「問い」を持って探究していくような授業構成そのものに関しては、後押ししてきたほうの立場だからだ。
それはそれでたしかに、教師から課題や進め方がすべて与えられ、「言われたとおりのことをやる」という姿勢で進めていくような授業像・学習像の脱却としては、意味があったはずだ。
けれども、それは、決して、学校教育で扱われるような文化財(文学作品であれ社会科教育で蓄積されてきた教材であれ)を従属的な位置に追いやってよいということではない。
むしろ、教師が自分の力で子どもに何事かをもたらせると思うことのほうが問題で、佐伯胖の「文化的実践への参加」モデルを持ち出すまでもなく、教師にできるのは、子どもを人類の文化的遺産に「出会わせる」ことだろう。
これは、教科教育学研究者が(時には極めて過激な論調で)「学習科学」や「教育方法論」先行の授業論を批判してきたポイントに連なるもの。私自身、昨年の全国大学国語教育学会では、汎用的学習論に無批判に乗っかった発表に「それは国語科教育学が蓄積してきたもののよさをないがしろにするものではないか」と質問した覚えもある。
けれども、今回こうした形で、自分たちが味わった作品の魅力と、「魅力」を「追究」することを掲げた授業構成との落差を突きつけられたのは、ショックだった。
実は、空間研例会のときにも、別の作品の実践報告のときに、「課題」やら「めあて」やらのことが問題になった(そのときも私は強烈に違和感を覚えた)。
教職大学院生らの模擬授業のときにも、「もっと教材がもつ力そのものを大事にしなさい。教師が余計なことをしなくていい」と指摘することがある。
「教育方法」を専門とする者としては一見奇妙に見えるかもしれないが、私にとっては譲れないポイントだ。
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