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教材文を劣化させていることに無自覚な道徳教育の業の深さ 〜小5「クマのあたりまえ」

原作の趣旨からかけ離れた改変を行っている道徳教材について、先日書いた。

道徳教材の恐ろしいところは、こうした「えっ、こんな改変ありなの!?」と言いたくなるようなものが、決して特殊な事例ではなく、ザクザク見つかることだ。

今回は、小5道徳教科書(東京書籍)に掲載された「クマのあたりまえ」を取りあげる。
教材を通して目指したいとされる「内容項目」は、「生命の尊重」。
あらすじは次のとおり。

子グマが、知り合いのクマの死に直面し、死ぬのが怖くなって、森の中に「死なないもの」を探しに行く。そして、「大きな石」に出会って、石になりたいと伝える。石から「そこにひっくり返って、じっとしていればいいのだ」と言われ、子グマはその通りにするが、つい気分がよくなって歌ったりつぶやいたりしたところ、「石は、歌わないのだ」「石はつぶやかないのだ」などと石から諭される。泣きそうになっていたときに兄グマに見つけてもらい、「こんなところで、なにしてるんだ」と尋ねられたことで、自分が足をかいたり歌ったりいろいろなことをしたいと思っていたことを自覚する。そして、「石になるのはやめとくよ。クマのほうがいいってわかったんだ」と石に伝えて、兄グマと一緒に森に帰っていく。

「クマのあたりまえ」、教科書に掲載された本文はこう始まる。

 子グマが一頭、ふんふん、鼻歌を歌いながら、森を歩いていた。
 少し先の木の根もとに、黒っぽいこんもりしたものが、横たわっている。見かけたことのあるおすグマが、背中を丸め、横向きでたおれている。まぶたは開いているのに、なにを見ているかわからないような暗い目をしてじっとしている。体は地面と同じ冷たさだ。
 どきっとした。これは死んでいるんじゃないか。死んだクマを見るのは、はじめてだ。
 子グマはかけだした。急いでねどこにもどると、兄ちゃんのクマにしがみついた。
「こわいよう。死んだクマを見たの。動かなくて、冷たかった。」

私は最初にこれを読んだとき、違和感をもった。
まず気になったのは、「どきっとした。これは死んでいるんじゃないか。死んだクマを見るのは、はじめてだ」の部分。「死んだクマを見るのは、はじめて」であるのなら、なんで「死んでいる」と分かるのだろう、という疑問だ。

そうした疑問を持ってもう一度本文を読み返すと、子グマがおすグマの死を確信するにいたるプロセスが、どうもしっくりこない
実際に子グマ役になって感覚を働かせながら空間の中を動いてみるとよくわかる。だんだんとおすグマに近づいて、おそらくはおすグマの前に回り込んで、より詳細に顔を見る。「体は地面と同じ冷たさだ」のところでは体に触れる。
が、どこで「あれっ何か変?」と思い、どこで「もしかして死んでる?」と疑念を抱き、どこで「これは死んでるに違いない!」と確信にいたったのかが、よくわからない。その過程がよくわからないまま、ねどこに逃げ帰って兄グマに「こわいよう」と泣きつく展開になっている。

教材文の末尾には「文:魚住直子」とある。児童文学作家の魚住直子さんだ。作品を読んだこともある。
その魚住さんがこんな、実感に沿ったかたちで読み進められない文章を書くかなあと疑問に感じ、原作が所収されている『クマのあたりまえ』(書名も同名)を入手して読んでみた。

驚いた。
まるで違う
以下が、先ほど抜粋した教科書本文に対応する部分だ。

魚住直子『クマのあたりまえ』ポプラ社、pp.156-157

ここでは、オスグマの死の確信にいたるプロセスが、ていねいかつコミカルに描かれている。

「まぶたはあいているのに、なにを見ているのかわからないような暗い目をしてじっとしている」というところで、まず、「どきっ」とし、「死んでいるんじゃないか」と疑念を抱く。確信まではいたらないのは、おそらく、「死んだクマをそばで見るのは、はじめて」だからだろう。教科書版と違い、「そばで見るのは」とあるから、遠くから見た経験はあり、だからこそ、「死んでいるんじゃないか」という推測はできたのだろう。

さすがプロの作家さんだなあと思わされたのは、この続きだ。
子グマは、「でももしかしたら、まだちょっとは生きているかもしれない」と考えて、横たわったオスグマのそばで、「あー、おほん」と咳払いする。
ユーモラスであると同時に「ありそう!」とも思わされるこのリアリティ。
そしてその後、前足がありえない方向にねじれているのを目にしたり、触ってみて体が冷たかったりして、驚きと恐怖の「わあっ」にいたるのだ。

この原作と比べると、教科書版の不自然さが浮き彫りになる。

教科書版では、「体は地面と同じ冷たさ」が先に来て、その後に、「どきっとした。これは死んでいるんじゃないか」と推測している。原作では、体が地面と同じ冷たさであることは、「これは死んでいるんじゃないか」と推測したあと、いろいろ働きかけを行い、最後に死を確信するときの決定打となるものなのに。「あー、おほん」の咳払いといった、「本当に死んじゃってるの?」とたしかめるための働きかけも、教科書版では省略されている。
つまり、本当に死んでいるのかドキドキしながら確かめるプロセスも、そこでの段階的な心情の変化も、見事にすっ飛ばされているのだ。

これは瑣末な違いだろうか? 長さを縮めるために必要でやむを得ない改変だろうか?
私はそうは思わない。
この教科書教材「クマのあたりまえ」の「ねらい」は、教師用指導書によると、次の通りだ。

生きていることの素晴らしさや喜びを感じ、かけがえのない生命を尊重し大切にしようとする心情を育てる。

そもそもが「生きていることの素晴らしさや喜び」や「かけがえのない生命」に焦点を合わせようとしている道徳教材なのだ。もし本当にそれを考えさせたいのなら、生と死の絶対的な境に子グマが気づいていくこの部分は重要パートのはず。そこを通り一遍のものにしてしまってよいのだろうか。


原作からの改変。それにより、「生きている」ことをめぐる子グマの試行錯誤と思索が骨抜きにされてしまっていること。
それは、この冒頭部分にとどまらない。

教科書に掲載された「クマのあたりまえ」を最初に読んだとき、気になったことがもう一つあった。
それは、「なんで石なの?」ということだ。
子グマが「森は広いんだもの、死なないものだって、一つくらいあるに決まってる」と言って、森の中に「死なないもの」を探しに行くときに、いきなり石にいくかなあ、という疑問だ。

実はここも原作から大きく違う。原作にあった文章がバッサリ削られている。
原作では、子グマは「」や「」に出会い、そこで思考をめぐらせている。

 花は死なないんじゃないか? さむくなるとかれるけど、春になるとまたさいている。
 でも、昨年の花と、今年の花は、同じ花なのかな。ぼくが冬ごもりをして、春におきるのと同じかな。それとも、ふるい花が死んで、あたらしい花が生まれたのかな。

というように。生きること、死ぬことをめぐる思索が現れている。

もちろん、教科書に掲載するにあたって、時に改変や省略が必要になることは、私も理解できる。だが、「生きていること」について考えることがねらいの教材で、こうもあっさりと、子グマが「死なない」ことや「生きる」ことについて「あーでもない、こーでもない」と考えている過程をすっ飛ばしてしまってよいものなのか。

原作からの改変、まだもう一つ、大きいのが残っている(小さいのは他にもたくさんある)。この改変はさすがの私も予想できなかったものだ。

教科書版では、最後、子グマは石に「石になるのはやめとくよ。クマのほうがいいってわかったんだ」と言葉をかけている。この「クマのほうがいいってわかったんだ」は、手引きでも主発問として「子グマはどんな思いで、『クマのほうがいいってわかったんだ。』と言ったのでしょう」と尋ねられているように、この教材において重視されているものだ。

が、実はこの「クマのほうがいいってわかったんだ」、原作にはない。上記抜粋に対応するのは、以下の部分だ。

魚住直子『クマのあたりまえ』ポプラ社、pp.172-173

「石になるのはやめとくよ」と言うだけで、「クマのほうがいい」というような石とクマとを比較する言い方はしていない。その代わり、「死ぬのは今でもこわいけど、死んでるみたいに生きるんだったら、意味がないと思ったんだ」というセリフが入る。

教材において最も重視されている発問が依拠している本文が、原作にはそもそも存在しない。そんなことってある??

教師用指導書においても、以下のように、この発問について、予想される子どもの返答や分析が書かれているが、原作本文との相違については何も述べられていない。

教師用指導書より

なぜこうした改変が起きるのだろうか?

おそらくはこういうことだろう。

魚住直子さんの「クマのあたりまえ」、「生命の尊重」を扱う道徳の教材にできそう。

「生きていることの素晴らしさや喜び」について考えさせるには、子グマが「死なないもの」である石の真似をするけれど、歌ったり泣いたりできないのが嫌になって、またクマに戻る、というあらすじがあればいいだろう。

あらすじにおさまらない細かな部分は適当に省略しちゃえ。

道徳の授業らしく、自分は石にはならないと決めたときの子グマの心情を考えさせたいから、子グマが自分の気持ちを述べたセリフはカットして、代わりに、「クマのほうがいいってわかったんだ」と付け足しておこう。そしてそれを発問に使おう。

要は、「生命の尊重」という「内容項目」が先にあり、それを道徳の授業時間内で扱いやすいように、教えやすいようにと、作品本文を改変してしまっているのだ。

その結果、どうなったか。
「生命の尊重」について教えるのに都合がよい(と作成者側が考えている)、表面的な筋書きだけが残り、読み手が実感に即した形で読み進める際に必要となるディテールが失われた
原作の文章は、「生きているとはどういうことか」をめぐって読み手に考えさせる力を持ったものだ(と私は思う)。けれども、本来もっていたはずのそうした力が、道徳教科書への収録にあたって、骨抜きにされてしまっている。

(念のため補足しておくと、文章を簡略化すること自体が悪いわけではない。例えば、冒頭の部分を、「散歩していた子グマが、知り合いのおすグマが死んで横たわっている場面に遭遇し、恐怖にかられて、兄グマのもとに戻る。」などと簡潔にまとめて、話を先に進めることは可能だろう。一見具体的に書いてあるように見えるのに、それが実感にそぐわないものになってしまっているのが問題なのである。)

学習指導要領の解説には、次のように書かれている。

本来実感を伴って理解すべき道徳的価値のよさや大切さを観念的に理解させたりする学習に終始することのないように配慮することが大切である。

『小学校学習指導要領(平成29年告示)解説 特別の教科 道徳編』

このように道徳教育の世界では、道徳的価値を「観念的に」ではなく「実感を伴って理解」することが大事であるとされてきた。
にもかかわらず、今回見てきたように、道徳教科書では、きちんと書かれた原作の文章を、道徳教材にするためにわざわざ、実感を働かせにくい、実感を働かせたら疑問点だらけになるものに改変することを行っているのだ。そのうえで、「実感を伴って理解」することを求める。さらには、「多面的・多角的に考え、議論」することを求める。
チャンチャラおかしい、と私は思う。

なお、この教科書版「クマのあたりまえ」の文章の不自然さは、別に、私だけが特別気づくことができるという類のものではない。

先日、某自治体で道徳教育の研修講師に呼んでいただいた(よく私を呼んだな、と思うがそれはさておき)際に、教科書版「クマのあたりまえ」の読み合わせを行った。冒頭部分、私が地の文を読みながら、受講生のみなさんには子グマ役になって動いてもらった。そのうえで、「何か引っかかったり疑問に思ったりした部分、ありますか?」と問いかけた。
受講生の数は約70名だったが、初読時の私と同様「『死んだクマを見るのは、はじめて』なのに、なんで『死んでいる』ってわかったんだろう?」といった疑問や、あるいは、「おすグマに声をかけてみないのかなと思いました」といった疑問が出てきた。

実際に動いてみることを通しての「道徳教材との出会い直し」

私がここまで書いてきたような教科書本文への疑問は、学校の先生方だって十分抱き得るものだ。
ただそれを、普段は、「道徳の教材だから」「道徳の授業ってこういうものだから」と封じ込めているのだろう。
それでよいのだろうか?

教えるべき内容項目が先行した結果、教材文が観念的なもの、無理があるものに陥っており、しかもそのことが意識されていない。「クマのあたりまえ」の改変に端的に現れていたこの問題は、残念ながらこの教材に限らず、道徳教材に広く見られる問題だ。

もし教科書会社がこうした改変しかできないのであれば、それはひとえに教科書会社の無見識あるいは力不足なのだろう。
そして、こうした改変を放置し、「道徳の教材や授業ってこういうものだから」と教師らがこうした改変への疑問をもたない状況を生み出してしまっているのだとしたら、それは、道徳教育関係者の怠慢以外の何ものでもないと、私は思っている。

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