「道徳」の名のもとに行われる非道徳 〜中2道徳教材「蹴り続けたボール」への疑問〜
道徳教材談義をしているときに、ある院生が、「実習校で扱ったやつで、納得いかないのがあったんですけど…」と紹介してくれた。
中2道徳教科書(学研)に掲載の、「蹴り続けたボール」。
サッカー、ワールドカップ日本代表としても長く活躍した長谷部誠選手が、プロになりたての頃を振り返って書いた文章だ。
教材文は、こんなあらすじ。
院生が引っかかったのは、本文そのものではなく、これが、「アンガーマネジメント」とセットになっている点。
「蹴り続けたボール」の続きで、「怒りの温度計」というのが載っていて、怒りの「強さの度合い」と「あなたの態度」との関係を考えさせるコーナーになっている。
院生は、長谷部選手の話からこれに持っていくのって、無理があるんじゃないか?と思ったらしい。
たしかにそれは引っかかる。
長谷部選手の文章の最後に載っている「考えよう」では、
の2つが尋ねられている。
アンガーマネジメントの話といまいちつながらない。
気になって、この教材文の出典元の、長谷部誠『心を整える。』を購入して読んでみた。
それで驚きの事実が判明した。
この文章には続きがある。「(監督が悪いんじゃない。)当たり前のことに気がついた。」の先がある。
とあり、具体的には、浦和レッズ時代には、
ドイツ移籍後は、
とのことなのだ。
そして最後は、こうまとめられている。
なるほど。
長谷部選手が書いたこの話は、怒りや恨みや悔しさでいっぱいになったときには、体を動かしたり温泉に入ったり旅に出たりして、スパッと切り替えよう、引きずらないようにしよう、というメッセージを持つものだったんだ。
が、道徳教科書におけるこの長谷部選手の文章の扱いは、そうなっていない。
教科書会社の指導書によると、この教材での発問および想定される子どもの反応は以下の通りだ。
ひたすら、気持ちを尋ねる内容。あるいは、気持ちを答えさせる内容(ちなみに「内容項目」は、「相互理解、寛容」だそうだ)。
おかしくない??
元の文章は、悶々と悩んでこじらせるんじゃなく、パーっと体動かしたり温泉に浸かったりして切り替えよう!という話なんですよ。
それがなんで、
「自分にはまだ力がないから、試合に出せなかったのではないかと気付いたから」
とか
「自分中心の考えでは成長はない」
とか、頭でっかちな話になってるの??
「評価のポイント」も、
となっていて、体を動かして切り替え、という点はまるで無視だ。
そもそも本文自体、「それ以来、僕は悔しいことがあったときは、〜」以下の文章が削られたことによって、体動かして切り替えようよ、という趣旨もぼやけてしまっているしね(タイトルも、「恨み貯金はしない。」から「蹴り続けたボール」に改変)。
おそらく、この教科書教材作成の真相というかいきさつはこういうことなんじゃないかな。
こうやって、元の文章の趣旨をまるで無視した、むしろ、「体動かして切り替えようよ」から「気持ちの持ち方が大事です」へと正反対の内容になった、謎教材ができあがってしまったのではないか。
指導書には、「授業を活性化させるコツ」というのもついていて、例えばこんなものだ。
体動かして切り替えという要素を無視して、気持ちの持ち方に終始させておいて、今さら「多様なものの見方や考え方」と言われてもねえ…。
あるいは、
とかも。元の文章をまるで無視した扱いにしておいて、「著名なプロサッカー選手の想いに共感することで」とか、よく言えたものだ。
取り上げた長谷部選手の文章自体は、面白い素材になりうるものだと私は思う。私だったら、一人温泉や一人旅の部分も含めて提示したうえで、
とか、
みたいなことを尋ねるかなあ。
こうした問いは、先入観なく元の長谷部選手の文章を読んだなら、自然に出てきそうなものだけれど。
「心」に焦点化するのではなく身心の連関の大事さを伝えるような文章を、その趣旨が分かりにくくなるよう改変し、もっぱら心の持ち方に終始させるような「発問」をつけて読ませる。
これが「道徳教育」の名のもとに行われるのであれば、それはなんと非道徳的なことだろう、と私は思う。
この記事公開後の後日譚をアップしました。この教材について私に教えてくれた院生がこの記事を読んで、のやりとりです。
別の道徳教材批判も紹介しておきます。これらは特殊な事例ではなく、道徳教科書に掲載された教材には、「なんじゃこりゃ」というのがいっぱいあります。
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