規定されたとおりに楽しむ「遊び」を超えて 〜北村匡平『遊びと利他』
北村匡平『遊びと利他』集英社新書、2024年
映画を扱ってきたメディア論の専門家が、遊び場の遊具を論じる。
粗い部分はあるのかもしれないが、私にとっては、今まで何冊か読んできた「利他」本のなかでも抜群に面白い一冊だった。
一つには本書が、人と人との関係を見るだけでなく、人と物、環境とのかかわりに目を向け、アクターネットワーク理論を援用してそれを読み解いているからだろう。
単一の遊び方を規定してくる遊具と、「対話」を引き起こし子どもに「疑い」をもたせる遊具との違いといったもの。
主張の内容的に、不確実性や偶発性の尊重、合目的的な効率性への疑問などの点で元々私の考えと近いというのはあるが、それを、教育のほうからではなく、環境、(広い意味での)メディアの分析から行なっているのが刺激的だった。
私がちょうど2ヶ月前に通りがかった府中の森公園の遊具とその環境がケチョンケチョンに言われているのも興味深かった(残念ながら私はその遊具ゾーンは通らなかったのだが)。
同公園では、
「ブランコの柵のところに「入口」と「出口」と書かれたコーンが立てられて」おり、
「遊びたい子供は入口から入って列に並ぶように促される」。
「順番を待っている場所には「ブランコからのおねがい」と書かれ、次の人が待っているときは「20回まで」との文言が記されている」
のだそうだ(第2章)。
トラブルを防ぐべく、よかれと思ってこうした環境になっているのだろうが、それによって、子どもは、「20回こぐ」というパッケージ化された「遊び」をこなすだけになってしまう。想定外の遊び方は出てこないし、譲らないことで他の子と争いになってそれをどうにかしていくプロセスも生じない。
府中の森公園は「インクルーシブ公園」の模範例らしく、北村氏も「インクルーシブ」の理念自体は否定しないわけだが、一方、「インクルーシブ公園」で実際に生じていることに対しては北村氏は懐疑の目を向ける。
遊具やゾーンが対象年齢などで切り分けられ、障がいの有無や種類を超えた、あるいは、年齢層を超えたかかわり合いが生じない。なんというか、こうしたズレは容易に目に浮かぶ。
北村氏は、興味深い出来事が生じている遊び場(=「利他的な遊び場」)として、本書では特に
福井県敦賀市の「第二さみどり幼稚園」、
東京都世田谷区の「羽根木プレーパーク」、
大阪府河南町の「森と畑のようちえん いろは」
の3つを取り上げ、フィールドワークに基づいて、そこでの子どもと環境の、子ども同士、さらには大人もまじってのかかわり合いを描写する。
さらにそうした検討をふまえて、「伴奏型支援バンド」や食堂、駄菓子屋に対しても、「利他的な環境」という点から考察を加える。
そして、「利他を生み出す環境」を生みだすための原理を導き出す。
著者自身も大学教育を取り上げて行なっているように、それは、学びの場、教育機関のありようを考えるうえでも有効だ。
いやあ、多様なかかわり合いを引き起こしている小中高の先生方は、この本をどう読むのだろうか。気になる。
そうそう、本筋とは直接関係ない部分で興味を引かれたこと。
本書で光を当てる3つの遊び場のなかでも最もワイルドな「森と畑のようちえん いろは」での日常の描写として、
という一文が登場する。
「水で遊びたい」「山登りしたい」は分かる。竹を3本結えただけのアドベンチャラスな「滑り台」があるような環境だし。
でも「マイクラごっこ」とはなんなのだ。「マイクラ」ってあの「マイクラ」(=マインクラフト)ですよね? ビルド系ゲームの。「マイクラ」自体が、広大な環境でのものづくりを模したゲームだが、そのゲームを模したかたちのごっこ遊びをワイルドな自然環境で行う。どんな遊びなのかは分からないが、けれどもこれもまた、子どもの(というか人間の)想像力&創造性の奔放さの表れだろうなと思う。