書けない病のツラさ
「学部のときの卒論が(書けなくて苦しんで)初めての挫折経験でした」とある院生が言っていたが、ペーパーテストで7点しかとれないツラさと、卒論(や修論・課題研究などそれに類するもの)を書けないツラさとでは、質的に違う。
おそらく、後者のほうが圧倒的にしんどい。前者は、場合によっては痛くもかゆくもないことさえある(…という話でも院生らと盛りあがった)。
卒論が書けないツラさ。
一つにはそれは、ペーパーテストだと、時間がくればそこで区切られるけれど、卒論だと、そうした区切りがなく(最終的な締切はあるものの)、書けない自分に直面し続けないといけないから、そしてそれによって書くことへのハードルがいっそう上がってさらに書けなくなるという無間地獄にはまるから、だろう。
また一つにはそれは、自由度の高さゆえの苦しさ、つまり、論文の場合は(少なくとも内容上は)自由度が高くいろいろなことを書けるはず(ペーパーテストのように「設問が悪い」などと責任転嫁できない)なのに、それが書けないということが、引き裂かれるような苦しみをもたらすからだろう。
それなりにちゃんと勉強してきた学生なのに「書けない」に陥る一つの典型的なパターンは、自分が考えたオリジナルの内容や考察(仮にそんなものがあるとすれば、だが)しか書いちゃダメだと無意識のうちに思ってしまっているもの。
実際には、論文のかなりの部分は、今までに行われてきた議論をまとめたり、前提になるものを説明したりといった、「地味な」ものによって占められている。というか、そこでどんなものを選んだりどんなふうにまとめたりするかといった点に、その人らしさが出る。仮にオリジナルの内容や考察を述べるにしても、それはそうした積み上げを行ったうえで、述べるもの。そうでないと、その人が新たに述べていることがどんな価値をもつのか(そもそもどこが「新たに述べていること」なのか)、読み手には認識できない。
けれども、「書けない」病に陥っている学生は、気の利いたこと(本人は別にそんなふうには思っていないだろうが)だけを書こうとして、どん詰まりになる。twitterのような媒体なら気の利いた一言二言で乗り切れるが、論文ではそれは泥沼への入り口になる。
だから、必要なのは、パーツをまずは置いていくこと。自分が考えるときの土台になっている部分(これまで読んできたものとか)を、読み手とも共有できるように、文字にすること。
それをしていくなかで、自分の考えをどこでどのように述べたらよいかも、見えてくる。
(逆のタイプとして、勉強ノート的なものをペタペタ貼り付けるけれど、論文として筋が通ったものにならない、構成ができない、という学生もいる。これはこれで、克服がなかなか難しいのだが、それでも、「書けない」病よりはマシだろう。やはり、空白の画面を眺め続けなければならないのは、精神衛生上よくないのだ。)
私も決してえらそうなことは言えないのだが。院生時代に苦しんだし、今も、書くことに苦しめられている。
とはいえ、多少は、自身の執筆に関しても学生への指導に関しても経験を積んできた。まさに今苦しんでいる院生の指導をしながら、考えをまとめてみた。