悲願へ 第二部 15
続きです。
次の質問は「呻吟と悲哀というのは、日本で言う「もののあはれ」とか「侘び」「さび」というのと近い概念なのでしょうか。」というものでしたが、まずは「呻吟と悲哀」を復習しなければなりません。
「呻吟」とは「苦しみうめくこと」、「よいモノを作るために、苦労をすること」であり、「苦しみ抜きながら、何ものかを求め渇望する、そしてすべてのものの命の中に生命の持つ悲しみを見つけること、そういうものが諸行無常ということなのです。」ともありましたが、それと「もののあはれ」、「侘び」、「さび」とは、上手く説明できませんが、ちょっと違うように思えます。
著者は「『もののあはれ』というのは、生命や存在の持つ呻吟とか悲哀をなんとなくかんじるということ」そして「その感じをそのまま表現すると侘びさびになります。」と言っています。この「なんとなく感じる」というところを深めて、呻吟とか悲哀の認識にまで落とし込まないと思想を確立することは出来ないということでした。
それはどういうことなのかと言えば「死ぬまで苦しみ抜かなければ駄目です。」ということでした。現代的な幸福論ではある程度苦しんだら見返りがあると考えてしまい、著者も「いつまで苦しむのですか?」、「その結果、何が分かるのですか?」ときかれるそうですが、死ぬまで結論は出ないのだそうです。「生命というのは、呻吟し悲哀を認識し、体当たりして挫けて跳ね返されることに価値がある。別にそれでもって何かをやり遂げるとかそういうことじゃないんです。やり遂げなくたっていい。体当たりに価値があるのです。」ということでした。
「問答無用と体当たり」とは、何度も出てきた言葉ですが、とにかくあれこれ考えずに行動を起こすということが大切だということでしょう。何をするにも、行動すれば結果と評価が伴いますから、結果が悪いければ自分は損するかもしれない、評価が下がるかもしれない、そもそも結果も関係なく評価が下がるなんて言うこともあると思います。でも、そんなことを考えてうじうじしているなら、問答無用で行動に移せと言うことでしょう。それによって結果が伴わなくても、やること自体に価値があると解釈しましたが、我ながらちょっと浅いような気もしています。
さらに続きます。