悲願へ 16


 続きです。

 ヨーロッパは移民、難民を制御できず大変なことになっていますが、その状態はヒューマニズムを振りかざしたことに対する一種の「神罰」だとありました。「神罰」なんて言う言葉を使ってしまうと、一般には受け入れ難くなりそうですが、見聞きする範囲でのヨーロッパの現状からすると、確かに「神罰」と言ったも仕方がないように思えます。ただ、ヒューマニズムを振りかざした一方、ヒューマニズムによって発展した側面もあり、このヒューマニズムは日本で言い換えると大家族主義になるということでした。

 日本は大家族主義の国、日本の根源的な宗教は大家族主義なのだそうですが、それが悪い方向へ向いてしまい、躾も何もないマイホーム主義になってしまったとのことでした。ヒューマニズムにしても大家族主義にしても、良い方向へ向かうのか悪い方向へ向かうのか、その違いと言うのが今一つ理解できておりません。ただ、世界中が、性急な発展を望む欲に負け、グローバリズムの波にのまれて自分の国の良さを捨ててしまったとあったので、「発展」というのが松下幸之助のいうところのそれとは違ったものになっているのでしょう。

 質問が変わり、「不幸を目指すことに偉大なる階層構造があり、その実際の表れは直線的に暗く陰鬱である、幸之助自身がそうであり、そうした姿を見せて『崇高』であることをあらわしたのか?」という質問になりましたが、もう質問の意味さえとらえきれなくなりました。ただ、著者の答えとしては見た目ではない、見た目通りでは「軽薄」で「単細胞」だとしていました。顔で笑っていても、厚いものが体内に合って悲哀を蔵していたのが松下幸之助だということでした。ここはとても難しいですが、質問者が「崇高の生き方をするからこそ、生命の悲哀があるんだということですね。」とまとめており、著者もそれに同意していました。

 いろいろ分からないところが多いのですが、「一致点があるのもいいけど、なくてもいいんだよ。一致点がなければだめだと思うこところが今の平和ボケなんだ。」とありました。意見が違った時に、そこにどう折り合いをつけるのかという部分は私自身も苦手意識があります。「間違った道徳観というのは、正しいものは決まっている、一つしかないと思っていることなんだ。」とありました。そうではなくて「違いを見つけるのが道徳」なのだそうです。

 さらに続きます。

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