自反而縮 雖千萬人 吾往矣
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馬渕泰太郎著「自反而縮 雖千萬人 吾往矣 馬渕泰太郎随想録」を読みました。著者は株式会社マブチ・エスアンドティーの2代目社長で、現在は馬渕商店を立ち上げ地元・辰野町の産物を販売されています。盛和塾の大先輩でもあり、我らが銀座男声合唱団の団長でもあられます。
まずタイトルが理解できませんでしたが、本文中にも解説されていましたが、これは孟子のことばで「公孫丑章句・上」からの出典です。「自反而縮」は「自(みずか)らを反(かえり)みて縮(なお)ければ」と読むようで史。「而」がどこへ行ってしまったのかと思いましたが、これは置き字と言って、読まずに文法的な機能を持つ字なのだそうです。「而」だけでも使用法が2つあり、ここでは「直前の語に送り仮名の『テ・シテ』を置き、順接を表す」のだそうです。「反みて」の「て」が「而」なのでしょう。この文の場合は「自分の心を振り返ってみたときに自分が正しければ」という意味になります。
「雖千萬人 吾往矣」は「千万人と雖(いえど)も 吾(われ)往(ゆ)かん」と読みます。「矣」も置き字で3つの使用法がありますが、ここでは「直前の語に送り仮名の『ン』を置いて意思を表す」もので、「往かん」の「ん」なのでしょう。「たとえ相手が千万人であっても私は敢然と進んでこれに当たろう」というものです。
あわせて「自分の心を振り返ってみたときに自分が正しければ、たとえ相手が千万人であっても私は敢然と進んでこれに当たろう」というものです。昨今の政治情勢などを見る限り、裏金問題など明らかに正しくないはずなのに、周囲に迎合して、この言葉とは全く逆になっている方が多いように思えます。しかしながら、自分に照らしたときに、これだけの胆力を持てるかどうか、なんとも難しいところです。
稲盛塾長は、「小さな判断を小さいことだとなおざりにせず、しっかり考えて正しく判断することで、いざという時に正しい判断が出来る」と言っています。一千万人を向こうに回して、それでも自分が正しいという判断に踏み切ることが出来るのも、やっぱり普段の判断の積み重ねではないかなと思いました。
そんな訳で、タイトルについてだけで長くなってしまったので、明日は本編に入ります。