守・破・離の離
この頃になって、わたしが師と仰ぐ作家さんから離れる段階になったようです。
ていうか遅すぎ?
まぁ、人それぞれなのでしょうから良いのだと思います。
別に師といっても、直接その人に師事したわけではなくて、わたしが勝手に作品から學んでいただけですが、藝術作品を作り出すものとしては、作品だけから學ぶというだけで充分でなくてはならないとさえ言えるものだと思います。
さて、今回は一体誰から行こうか?
その前に何人かいる師の中で、主だった人たちを列挙するのが先でしょうかね?
デ・クーニング、リヒター、トゥオンブリー、ピカソ、ゴッホ、ミロ、ステラ、岡本太郎。
大体その辺でしょうかね?
まずはリヒターさんからいこうかな?
リヒターさんを知らない方は、調べるか、わたしの文章をスルーしてください。勝手に書き殴りますので。
彼の初期の写真みたいな絵については、その藝術的な意義などにかかわりなく、わたしは無視するとして、あの、代表的な技法、そう、スクイージーを使った一連の抽象画です。
その作品たちを抜きに、わたしの(考えようによっては安直な)ホウキにタオルをかぶせて、それで絵の具をすくって幅の広いストロークを作る描き方は生まれませんでした。
まぁ、彼の色面というのがとても良いと思ったわけです。
スクイージーを使って描くことについて、他の者が真似をしてはいけないとか、そんな言われは当然ないので、他にやる人がいるかというと、わたしの知っている限りそんな人は見たことがありません。
それは何故か?
一言で言えば汎用性がないということでしょう。
それだけでは説明不足ですか?
それが生まれた時点で限界が来るのが早かったと言うことです。
ポロックのアクションペインティングと同じく、やったもの勝ちに近いものです。
そう考えるとそのような技法って、誰がやってもよかったのでは?とか、そんなことではどうやら無いようなのですね。
ちゃんと一流の造形作家が思いついたということに、人類の奇跡というか、そんなものがあるのでしょう。
ピカソの絵なども、ピカソの天才的なデッサン力があって初めて生まれたものですし、物理學における発見という、宇宙に普遍の物事についても、発見者の名前が残ったりするものに似ているような氣がします。
リヒターさんに話を戻します。
彼のスクイージーの技法は、真似すれば彼の劣化コピーは誰でもできますし、何なら同じようなクオリティーの絵もできると思われますが、それほどに彼の個性と言うものが脆弱なもののような氣もしないではないと言えます。
いや、それは言いすぎ。彼も充分個性的です。
そう考えるとわたしのお粗末な発明(というかパイオニアは他にいるかもしれませんが)は、他の人が取り入れても結構その人なりの画面てできるような氣がしますね。
馬鹿馬鹿しくて真似する氣が起きないかもしれませんが。
リヒターさんの今までの大量のスクイージーの作品のすべてより、わたしがここ3年ほどで描いた50号の油絵たちの方が情報量が多いのではないか?
なんちゃって、わたしはそんなことを1人で思って1人で悦にいってたりします。
しかし、それはポテンシャルの段階です。
まだまだわたしの仕事は始まったばかりです。
わたしはもっと時間をかけなければ、画家として認められる事はないでしょう。
リヒターさんについては、ざっとそんなところです。
次回(多分次回)は、ストロークのスピード感について語ります。
ちょっとヒント。
デ・クーニングとゴッホを一緒くたに取り上げます。
勘のいい人なら、それだけでわたしの言わんとすることがわかるかな?わかんねぇだろうなぁ。by松鶴家千歳