普段の生活の中に藝術があること
自宅の居間でずっとソファーに座って、なにがしか他人から必要とされることも無く、適当に何かやっています。
ポストカードのドローイングなど、別に苦労して描いていやしません。
ただただ、河原の石ころ程度の価値しかないような氣もします。
キャンバスに油彩とて、基本的にそんなつもりで描いています。
もったいつけてン万円とかつけたところで、値段の根拠なんてあったものじゃありません。
なので零円なり。
再三申し上げているように、野の花を摘んで帰る位のつもりで、ご自宅に飾ってもらえたなら、わたしはそれで満足です。
それは若い頃、っていうかついこの間まで、いわゆるコウナリナヲナスことが人生における成功だとか考えていましたが、それって他人が決めるものですよね?
美術史に残る画家とかも、いい加減なような氣もしてきました。
サモトラケのニケの作者とか、誰も知りませんよね?
ラスコーの壁画も然り。
左様に河野隆尋が一体どうしたというのでしょう?
今、自分の身の周りなど考えでみても、誰もわたしのことなど氣にかけているわけでもなく、もちろんわたしも、特定の誰かの事など、普段は思ったりもしてないし、そんなこと当たり前ですよね?
わたしの絵は藝術作品だと、そんなつもりでただ描いているし、他人様にもそのように扱ってほしいとは思いますが、そんなのも我が勝手ちゃ勝手ですもん。
なんていうか、権威なんていうものが、どのように成り立っているのか?そんなことがよく分からないんですよ。
ただ、素晴らしい作品は、世の中に厳然として存在します。
それを何の先入観も無しで味わえるのには、ひょっとして修練ていうか、そんなものが必要なのかもしれませんね?
かくいうわたしなども、骨董品の真贋とか、ほとんど見分ける自信はありません。
なので、骨董品などに関しては、それなりの目利きの方を信頼して買うしかありません。
してすると、絵画の目利きさんてどなた?
今の時代にそんな方とか、あやふやになっているようにしか感じられません。
別にそんな方に評価していただくなくても、わたしの絵を手に入れた人が、自宅にそれを飾って眺めているうちに、何かしら感じるものが芽生えてくるのではないか?
とか、思って、わたしは人に零円でもってお分けすることに決めた次第です。
例えば、ブログで言葉を発信している方も、いわば零円ですよ。
そんな文章や詩などを、零円で読ませていただいて、感動もさせてもらえるし、己が人生の役にも大いに立っています。
画材代がなんぼのものでしょう?
画材代さえ何とかなれば、零円で垂れ流しますよ。
観る人がわたしの絵に価値を感じるか感じないとか、わたしの力ではどうすることもできません。
ただ、偉い芸術家の作品だから、とか、これはいくらいくらはたいて買ったものだから、とか、そんなものに左右されずに、
それこそ、一輪挿しの花を取り替えたりする位の、生活に潤いを求めている人に、わたしの絵が届いたら良いですね。
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