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古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず

梅雨の時期になると毎年、もう今年も半分すぎたのかあと漠然と、そして漫然と日々を送っていることを少しだけ後ろめたく感じるも、特にこれといって新しいことを始めようとか、やばいなあとか焦ったりもせずに目の前の仕事を淡々とこなすしかない日常を送っている。
今日も気が付くと外では雨が降り出していた。仕方なしにエアコンを入れて少しばかり除湿を図る。

ゴールデンウィークの連休明けから会社ではなく自宅で仕事をするようになったから電車通勤から解放されて、時にのんびり、時に追い立てられるように仕事をしていてもやっぱり仕事は仕事なので溜息が漏れたり、どうしていいかわからないことで気を揉んだりしている。

世間は犯罪だとか、貧困とか、戦争とか、そういう暗いニュースで溢れているし、自分自身の生活も特にこうパッと明るく花が咲くような出来事は起こらないまま気が付けば1日、1週間、1カ月が過ぎていく。たぶんほとんどの日本に暮らす人がそうやって間違い探しみたいな日々を送っている。
自分の力ではどうすることもできない大きな力や意思みたいなのが働いていて、それに抗う術もなくなんとなく流されるままに生活をしている。別にそれが良いとか悪いとかいうんじゃなく、きっとそういうのが当たり前の普通っていうことなんだろう。そういうことを言うと不満があるなら自分で何とかすれば良いとか要らん助言を偉そうに宣う輩が現れるがそんなのはノーサンキューである。

特にこれといって、何かを書きたいと思ってnoteに綴っている訳じゃない。
少しだけ滞っていた仕事が前に進んで今少しだけ余裕が出たからこうしてたまには何のプランもなくだらだらと何かを書くぐらい許されてもいんじゃないかという、言うなればただの暇つぶし精神が、積み上げられた仕事の山をどかしたら芽をもたげた、ただそれだけのことだ。

こうして書いているとあたかも満たされたないなにかや、訴えたい何かがあって書いているみたいな文体になっているけど、全然そんなこともなく、いや不平不満はあるけど、そんなのたぶん皆が抱えているものと似通ったもので特に取り出してああだこうだ言う必要はないものなのばかりに自分としては思うのだが、いやおそらく本当のところは自分の心のうちの不平不満をひとつひとつ美術館のごとく丁寧に並べ、これは何月何日に感じたこれこれこういう感情です、と偉そうなことを掲げた挙句、ねえあなたにも分かりますでしょう?ええ、そうでしょうとも、などと共感を示してもらえないかと淡い期待を抱いている、きっとそうなのだと思う。その程度のものだ。

さして述べることはない。なんて言いつつ本当は言いたいことがあるからこうし書いているんだろうと思った人がいたなら悔しいが正解だと言わざるを得ない。
2つ、今回は書こうと思う。
1つはタイトルにある、この言葉だ。

古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず

方丈記

(初めて引用なるものを使ってみたがこれで合っているのだろうか)

方丈記で鴨長明が綴ったこの有名な一文。冒頭の”ゆく川の流れは~”の方が有名だろうか。そもそも方丈記自体が有名なのだからそこは気にしなくてもよいかもしれない。
恥ずかしながら、仕事の合間を縫って方丈記を初めて読んだ。
冒頭の一文こそ知ってはいたが、どのような内容なのかまでははっきりと知らないまま大人になっていた。
なぜ読むに至ったかというと、堀田善衛の「方丈記私記」を手にとったことがきっかけだった。
「方丈記私記」は戦時中、空襲を体験した作者の堀田善衛氏が焦土となった東京を眺めながら方丈記の内容を思い起こし、鴨長明が生き、体験した時代と今の日本が直面している問題を照らし合わせて綴られたエッセイなのだが、本当にこの堀田善衛という人のすごさがうかがえる。
どうすごいのか。特筆すべきはその圧倒的な教養だと思われる。
内容については僕自身あまりうまく飲み込めていない。たぶん6割も理解できてないんじゃないかと思われる。
日本の古典の知識や、歴史的な教養、そしてそれに基づく実践的な解釈は、氏をして鴨長明を実践的な人物と捉えられていたが、おそらく読者のほとんどの人が堀田善衛もまた実践的な人間だったということが分かることだろう。

実際に見て、聞いて、その場所で感じたことを文章に綴ることはこんなにも説得力と想像をかきたてるということが肌で感じられる。そんなエッセイだ。もし日本の古典や歴史に興味があるのであれば、ぜひ読むことをお勧めする。
この「方丈記私記」を読むに辺り、やはり原文と訳で一度「方丈記」を読んでおかなければと思い、読んでみたのだが、思いのほか短く、きれいにまとめられていた。
堀田氏も綴っていたが、文体のリズムが気持ちいい。
学生時代、僕は古文があまり得意ではなかったが、なんとなくこういうことを言っているのだろうなと推測し訳と照らし合わせるのは存外楽しい作業だった。もちろん、面白かった。
当然想起されるのは現代の日本が相対する様々な問題や、世界的な情勢についてだが、そういうものは学者の人たちに任せて自分として感じたことを述べさせてもらうなら、やはりタイトルの一文。
これは現代の日本人で当てはまらないひとは一人もいないのではないだろうか。我々日本人はどこへ向かっているのだろう。
この空っぽの社会は一体何を求めているのだろうと、町を歩いていると不安になることがある。いや別に政治家とか、総理大臣でもあるまいしそんなこと気にしなくてもいいんじゃないと思う人がいるのもまた一面の真実で、だがしかし僕としてはこういうことを考えざるを得ない性分なのだ。ただそれだけだ。
余りにも今の日本人は空っぽではないかと思うことがある。
右に倣えば右へ、左に倣えば左へ、とにかくみんなと同じにと同一化や均一化を図りつつも、拡大していく個人主義や自己責任という言葉で窒素しそうになっている人ばかりではないか。
好きなものや嫌いなものもなるべく人と同じ。けれども自分は得をしたい、あいつよりも注目されたい、もっとお金が欲しい、なんだかそんなことばかりが町に溢れかえっているような気がする。疲れるよね。

半端な西欧化と、大量消費文明がもたらした被害はこれからもどんどん深刻になっていくだろうし、高齢化社会、少子化問題ももはや誰にも止めることはできない。最も誰の責任でもないのかもしれないし、自然の摂理と言えばそれで済む程度のことかもしれない。

”古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず”

いつだってそうなのだ。鴨長明の時代から、人間は、特に日本人はどういうわけかそういう気持ちと常に一緒にいる気がする。物理的にも、精神的にも。合わない靴を無理に履いているみたいに。
僕は自分の今の仕事に対して本当にそう思うことがある。
一体どこへ向かおうとしているのか。本当に自分がいるべき場所はここなのだろうかという気持ちに襲われることが多々ある。それは具体的な何かがあってのことではなく、ポジティブに言えばここではないどこか、もっと自分に合う場所で働くことができないかと模索することだし、ネガティブに捉えれば自分に向いていない仕事を向いていると自分自身に言い聞かせてここまで歩いてきたような感覚もある。治っては繰り返す靴擦れを繰り返しながら。
いよいよ本当に生き方を極限まで考えて、死ぬまでどう生きていくかを
答えは出せなくてもこういう風に生きたいと計画を練らないと、心がダメになってしまいそうな所まで来てしまったのかもしれない。

2つ語ろうと思っていたが、たぶん2つ目はこの仕事のことだったと思う。
という訳でぼちぼち仕事の方が動き出しそうなので今回はこの辺で終わりにしようと思う。
結局ちょっと暗い内容になってしまった気がするけれど、久しぶりに物を書いたので楽しい気持ちが芽生えた。

ではまた。



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