大橋藍個展「一人の女性、一つの命」
大橋藍個展「一人の女性、一つの命」
友達の友達が「そうぞうりょうは愛だ」と言っていたらしい。友達の友達の発言なのでsozoryokuが「想像力-イマジネーション」の事なのか、「創造力-クリエイション」の事なのかわからない。
先日、北先住Buoyでおこなわれていた大橋藍「一人の女性、一つの命」に行った。展示会では大橋さんの大学時代の友人「のんちゃん」…アーティスト濱口望さんの絵が展示してあって(大橋さんによるキュレーション)、ひとつめの空間には、のんちゃんの作品がびっしりと展示されていた。展示されている点数が多いので迫力があった。
奥の部屋は暗くなっていて、映像が投射されていた。投射されている映像は、のんちゃんのご両親の映像だった。
その映像作品で、大橋さんは「飲酒運転の加害者に成り代わって、のんちゃんのご両親にインタビューする」というパフォーマンスを行っていた。
タブレットで展示されている小さい映像作品があって、それは30分ほどの長さ。画面に映されたお母さんは途中から泣きながら怒りだしていく。音声はサイレントになっていた。
プロジェクターを使って、壁一面にのんちゃんのお父さんとお母さんを投射している映像作品もあった。1時間30分ほどの長さだった。こちらはヘッドフォンから声を聞くことが出来た。
大橋さん本人はインタビュアー的なポジションなので画面には映っておらず、声だけが聞こえてくる設計になっていた。飲酒運転の加害者について、かなりプライベートな事にまで踏み込んで話していた。お母さんは涙ぐんだり怒ったりしていた。お父さんも涙ぐんだり怒ったりしていた。自分には、お父さんが本当のところ何を考えているかはわからなかった。
この作品の、というこの展示会の目的の一つは飲酒運転の撲滅だと思う。ただし「飲酒運転をしてはいけない」というのは学校や教習所でも教えている事であり、法や規則があっても破る人は破る。(むしろ法に助けてもらわなければいけない)司法よりも感情に訴えかける方がいい、という考え方は出来るけど。
ドラスティックに考えると、飲酒運転による事故がなくなっても、のんちゃんは帰ってこない。もしかしたら社会に向けたメッセージというよりも、もっと個人的な弔いのような意味があるのかもしれないと思った。
暗い部屋にうつされた映像の横に、のんちゃんの服飾作品が置いてあって、映像の上にも、のんちゃんの絵が飾ってあった。暗い部屋には豆電球を使ったインスタレーションがほどこされていたり、プロジェクターから3本のヘッドホンの線が垂れてて、祭壇のような雰囲気があった。あえて大げさにいえば、異界のような雰囲気だった。(社会学-現代思想のロジックに従えば、近代以降は「男」と「それ以外」の2つに分けられるので、「社会ではない(排除されている)から社会派である」と言えるかもしれない)
ゲストトークでは、アーティストの飯山由貴さんが話していたのを聞いた。昨年の、大橋藍個展『パパ』の内容と絡めながら、ジェンダーの話や、加害と被害。作品で当事者性/被害者性を扱う事についてなどなど。
大橋さんの発言で印象的だったのは「本音を聞きたい」という言葉だった。なんとなくわかる。
自分がコロナ禍で哲学対話にハマっていたとき、対話の最中に怒りだしたり、泣き出したりする人があらわれることがあった。感情をむき出しにして取り乱す人に直面すると、怖いこともあったけど、愛おしくなることもあった。
逆に知識の披露しかしない説教くさい人がいると「あなたの本当の感情が知りたいんです」というムーブをしかけて、何かエモーショナルな部分で人を愛そうとしていた。
なんというか、アートにもそういう面があるような。というか「そういう面を探るアートもあるのだな」と気がする展示会だった。