疎外感
朝、母と電話で話しながら、自分が今何もできない、と呟いてしまった。
いま、世の中で起きていること。
明日の命もわからない状況を地球上の多くの人が感じ、ある一人の独裁者と呼ばれる人間が、世界中から責められている。
私は彼を支持する気もないし、彼がやっていることは完全に間違っていると思う。けれど、彼だって元々は人間だ。少なくとも、長い間、大きな国をできる限り平穏に治めてきた一国の大統領だ。決して、大量殺戮が好きな犯罪者ではなかったはずだ。誰か、彼に制裁を与えるのではなく、「あなたは愛されている」と伝えてあげられる人はいないのか?
いま、世の中の雰囲気は、怖れに満ちている。
コロナがあって、戦争が始まって、自由を奪われた気分になって、一人ひとりが苦しんでいる。そして、誰が何が犯人なのか、探そうとしている。その犯人から身を守るためのワクチンや、特効薬や制裁によって犯人が消えれば、物事が治るだろうと信じている。
それは間違っていると思う。
二つのことを同時に書いて、ややこしくなったので、一つのことについて書き留めておく。
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私は、中学の時にイジメに遭った。
その時に一番辛かったのは、イジメをしてきた当事者よりも、当事者を煽る側近的な二番手たちと、クラスメイトだった。彼らのことが信用できなくなった。当事者たちは、まるでプロレスのリングに乗せられている見せ物だ。その勝敗を靡かせるのは、煽っている第三者たちだ。特に、側近たちはあらゆる言葉で煽る。彼らは嘘も無責任にたくさんつく、話を盛る、有る事無い事、面白おかしく言葉で伝染させる。
それを聞いたクラスメイトたちは、自分も被害に遭わないように、または客観視して私を無視した。私を見なかった。いま、本人たちに聞いたって、きっと「自分はそんなこと意識的にした記憶はない」というだろう。でも、側近たちはそれが狙いだったはずだ。
側近たちは、自分の立場がクラスで有利になるためなら、人をコントロールする努力を惜しまなかった。イジメ当事者には諂い、クラスメイトには道化を気取って、どちらからも好かれて自分の立場が良くなることに努めた。どこまでその手が伸びているのかわからなくなった私は、同学年の他のクラスの子たちや、先生たちでさえも信用できなくなった。
もちろん、その側近たちの意図は、集団意識コントロールではなかったと思う。彼らは単に自分の立場が良くなって、快適にクラスにいたかったのだ。でも、彼らは無意識にクラスメイトをマインドコントロールをした。
私の場合、当事者同士で話し合いができたので、事は徐々に収まったが、その側近を含むギャラリーたちと以前のような関係には修復できなかった。
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クラスのいじめと、今起きている戦争は比べ物にはならない。でも、今の私たちはギャラリー、クラスメイトだろうと思う。
過去に自分に起きたことで、誰かを責めるつもりはないし、その時の自分が可哀想だったと思うこともない。ただ、そんな経験を受けたからこそ、今気づけたことがある。
苛めた側、苛められた側、そんなジャッジはっきり言ってどうでもいい。それよりも、どちらに加担するか、どちらに制裁を加えるか、一番酷いのは「どうでもいいから、早く戦争なんてなくなってほしい」と言い放ってしまうこと。恐怖を煽ってるのは、私たち自身だ。ギャラリーのもつ『雰囲気』というのは本当に恐ろしいものなのに、我々は、一人一人の自分の思いなんて世の中に簡単に影響するものじゃない、とタカを括っている。私も、今回の戦争が始まった時「プーチンさえ居なければ、全て解決するのに」と、単純に思ってしまった。
間違っていた。
誰かを恨んで、それが解決になるのか?それも、今のところ、直接何かされたわけでもない私が、そんなことを思う権利があるのか?二次的三次的には影響があるかもしれないし、日々の情報として恐怖に煽られ、今1時間後に核が投げられ、原発が爆発して一貫の終わりになるかもしれないけど、私にはプーチンを恨む権利は今のところない。
だから、私には今何もできない。
でも、敢えてできるとしたら、ギャラリーの一人として、「プーチンが暴走しているのは、彼が制裁を受けてどんどん孤立していくからでは?」と仮説を立てることくらいはできるかもしれない。反論されるのは覚悟だ。でも、プーチンだって死にたくないはずだ。人の命を虫ケラのように殺戮していくことは、自分自身にさらに恐怖を与えていると思う。私たちが抱えている以上に、彼は自分がいつ暗殺されるか、いつ自分の反逆者が出るかを恐れていると思う。制裁を受けるほどに孤立する。彼には側近にさえも、味方はいないだろう。
彼を孤立させることが本当に平和への手段なのか?
もう酷く始まってしまった制裁、それは本当に和解に向かうものではない。「あいつは焼きが回っちゃったんだよ」と言ってしまうのは簡単なことだけど、そこに火をつけているのは私たちではなかったか?
自分たちを責める必要はない。でも今、私は、恨みや恐れとは全く反対のことをしなければならないと思っている。ギャラリーの恐怖の色を一刻も早く平和の色に変えていかなければいけないと思う。その色を変えるのは制裁ではなく、愛だと思う。血も涙もない相手に愛をかけたって何の意味もない、そう思うことは絶望にほぼ近い諦めだ。だから間違っている。表面的な集合意識ではなく、ギャラリーの力(集団的無意識)のために、愛の気持ちと赦しの気持ちを持つべきなんだと思う。
悔しいかな、プーチンの話を聞いてあげたい気持ちになった。
二年前から覆っている恐怖の雲を早く取り除くには、私たち一人ひとりがちゃんと考えて、たとえどんな幼い意見だとしてもそれを強く思えること、そして何かを恨んだり、何かを恐れたりしないことしかないと思う。
犠牲者と犠牲者の近しい人たちに祈りを込めて。