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Black Lives Matter(BLM:ブラック・ライヴズ・マター)

 前回、Je t'aime, moi non plus. の解釈と翻訳をめぐる話をしたとき、このBLMのことを思い出した。
 でも、なぜ思い出したのか思い出せなかったので、ウィキペディアを検索してみた。そうしたら、ようやく思い出した。
 この Black Lives Matter も、ある意味で翻訳不可能なのだ。
 ウィキペディアのこの項目の日本語ヴァージョンには、こんな解説が記されている。

「Black Lives Matter」という言葉は、短く平易な英単語による表現であるものの、日本語への翻訳は困難である。文脈をよく見てその意図を読み取る必要がある。

Wikipedia

 この記事によると、#Black Lives MatterというハッシュタグがSNS上で拡散されたのは、2012年2月にアメリカフロリダ州で黒人少年のトレイボン・マーティンが元警官で自警団団員のヒスパニック、ジョージ・ジマーマンに射殺された事件に端を発するという。その後もたびたび治安当局による黒人の傷害致死事件や射殺事件が起こり、ついに2020年5月にジョージ・フロイド事件が起こると、この事件に対する抗議運動とBlack Lives Matterというスローガンはまたたくまに全世界に広まった。
 この事件は、ミネアポリスのデレク・ショーヴィン警察官がアフリカ系アメリカ人のジョージ・フロイドを偽ドル札使用の容疑で逮捕拘束する際に容疑者の頸部を膝で8分以上押さえつけて窒息死させた事件だ。
 私はこの事件の報道で、初めて Black Lives Matter という言葉を知った。テレビや新聞では、当初「黒人の命も大切だ」という日本語訳を採用していたと思う。とっさにこの訳に違和感をおぼえた。
 さきほど引用したウィキペディアの記事によると、この日本語訳の出元は日本語版のハフポスト(HuffPost)だったようで、事件報道が広まるにつれて、この訳に対する異論批判も高まり、「黒人の命を守れ」とか「黒人の命も大切だ、軽視するな」とか「黒人の命は大切だ(です)」、「黒人の命が大切」、「黒人の命こそ大切」とか、さまざまな修正案が流布されたという。
 さらには「黒人の命を粗末にするな」とか「黒人の命にも価値がある」などの〈意訳〉も出てきた。
 そして極めつけは、村上春樹氏の「黒人だって生きている」という解釈だろう。この情報の出所を明確にするために、その新聞記事の冒頭部分をそっくりそのままここに引用しておこう。

 戦後75年の8月15日夕、村上春樹さんがディスクジョッキー(DJ)を務めるラジオ番組「村上RADIOサマースペシャル」が放送された。お気に入りの音楽をかけ、合間にリスナーから寄せられた質問に答えるプログラムだったが、音楽とは直接関係のない二つの発言が特に印象に残った。
 一つは、米国で5月に起こった白人警官による黒人男性暴行死事件を機に、世界各地に広がった黒人差別への抗議デモのスローガン「ブラック・ライブズ・マター」に関するものだ。「いろんな人が翻訳しているんだけど、どれもピンとこない。もし僕が訳すとしたら『黒人だって生きている!』というのが近いように思うんだけど、いかがでしょう」。アメリカ文学の翻訳家で、米国に長く居住したこともある村上さんが、経験をもとに熟考して出した提案と感じた。

(毎日新聞 2020/8/23 東京朝刊)

 フロイド事件の直後、これと同種の記事を、自分が購読している朝日新聞でも読んだことを今でも明確に覚えている。この村上春樹氏の訳には少し違和感をおぼえた。記事自体にも違和感をおぼえた。朝日の記事は手元にないので、同列には扱えないけれど、「アメリカ文学の翻訳家で、米国に長く居住したこともある村上さんが、経験をもとに熟考して出した提案と感じた」というようなニュアンスに首を傾げたのだろう。本当に「経験をもとに熟考して出した提案」なのか?
 「黒人だって生きている」というのと「黒人の命も大切だ」というのと、語感を除けばどれだけ意味が違うのだろう。「だって」と「も」が、とても気にかかる。
 ウィキペディアの記事から孫引きしたさまざまな「訳」は、どれも matter を動詞とみなしている。そのこと自体に問題はない。けれど、Black Lives Matter というスローガンが 、2012年の「トレイボン・マーティン事件」を機に拡散したハッシュタグに由来するとすれば、このハッシュタグの命名者にしろこのスローガンを声に出したり、文字にしたりしてきた抗議運動の参加者たちは、これを動詞だとか名詞だとか意識しているだろうか?
 意味だけに注意を向ければ、このBLMの言わんとするところは、It's a matter of Black lives(これは黒人の命/生活の問題だ)に尽きるのではないだろうか。つまり、これは人種の平等とか、人権とか、理念や制度の問題である前に、むしろ生存権、死活問題、どれだけ黒人の命がないがしろにされてきたか、そういう問題なのだと主張しているのではあるまいか。
 けれど、It's a matter of Black lives では当たり前すぎる。客観的だが、何も言っていないに等しい。だって、黒人の命が奪われているのは周知の事実であって、いまさら何を言うかということになってしまう。不定冠詞の a matter of ... を定冠詞付きの the matter of ... にしたところで、独りよがりの何がなんやらわけのわからないものになってしまうだけだ。
 Black Lives Matter と、動詞で短くきっちりと力強く言い切ることで、人権・人種差別の問題である前に、黒人の生存権・生活権の問題なのだということをあらためて強調する。このスローガンには、痛切な抗議の意思が凝縮されていると考えるべきだろう。
 そもそも白人が黒人を奴隷としてアフリカ大陸から連行してきた当時から、白人は黒人に対して生殺与奪権を行使してきたのではなかったか。黒人のみならず、先住民に対しても。
 ウィキペディアは「このように日本語では一意に翻訳を定めにくい現状を踏まえ、あえて日本語には訳さないほうがよいという主張もある」とまとめている。これは見識というべきだろう。
 Je t'aime, moi non plus も Black Lives Matter も、今はもう誰も翻訳しない。あえて日本語に置き換えない。置き換えると何かがこぼれ落ちる。むりに解釈すると翻訳ではなく、説明になってしまう。
 人は答えを欲しがる。翻訳する人は日本語を求める。けれど——なんども繰り返すけれど——、大切なのは文脈であり、背景であり、状況であり、前後関係であり、あるいは歴史的過程なのだ。
 答えはありません。規則もありません。
 そう言うと人は不安になる。
 でも、それが考えるということ。答えよりも考えることが大事。
 Thinking Matter./Thinking matters.
 Je pense, moi non plus, donc je suis.

 補註:ちなみにフランス語では、" les vies noires competent " とか ”la vie des Noirs compte" とか訳されているようです。ずばり、直訳ですね。直訳できるのがうらやましい。この自動詞の competer には、大切だ、重要だという意味があるだけでなく(他動詞だと数を数えるという意味になります)、やはり一語の動詞には力強さ、説得力がある。そう、単語は意味だけでなく、強さとか弱さとか、固さ、柔らかさ、優しさ、厳しさのようなものも担っている。できればそういうものも翻訳には反映させたい。そういう音楽性のような、絵画性のようなものも、文脈の洞察と同じように「大切」です。ひょっとするとそれらは繋がっているのかな。だからたくさんの音楽を聴き、たくさんの美術に触れることも「大切」です。

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