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香山健一氏との出会いと、臨時教育審議会

1984年8月に政府が設置した臨時教育審議会は「第3の教育改革」を目指し、戦後教育改革の根本的変容を迫るものであった。今後の教育改革の在り方を検討する上で、臨教審の今日的意義をいかに総括するかは避けて通ることができない課題といえる。

●香山健一氏との定期的な「戦略会議」と文部省の反発

3年間の米留学から1983年に帰国して在米占領文書研究の成果、とりわけ教育基本法の成立過程と教育勅語の廃止過程に関する私の論文が注目され、臨教審設置法に「教育基本法の精神に則り」と明記されたことから、「教育基本法の精神」とは何かについて論議する必要があったため、総論について議論する第1部会の専門委員に選ばれた。

臨教審の総会と第1部会で教育基本法の成立過程と教育勅語の廃止過程について、在米占領文書の第一次資料と日米の関係者インタビューに基づいて詳細な報告をさせていただいた。
とりわけ強調したのは、教育基本法と教育勅語の関係についての歴史的経緯についてであった(高橋史朗編『臨教審』『臨教審と教育基本法』至文堂、参照)。

中曽根首相は臨教審が教育基本法の改正に踏み込めず、教育理念の検討が不十分であったという理由から、臨教審改革は「失敗した改革」と評価したが、その最大の原因は文部省が強く抵抗したからであった。

最大の論点は「教育の自由化」をめぐる論議であった。

臨教審委員の人選は、「学校選択の自由」や「学校設立の自由」などの「教育の自由化」を目指す政策を提言した「世界を考える京都座会」の基本的な考え方に賛同する有識者とそれに反対する文部省サイドの有識者の推薦者リストのせめぎあいの中で行われた。

私が所属した第1部会は前者、第3部会が後者の急先鋒であった。前者をリードした学習院大学の香山健一教授が月刊誌『文藝春秋』に「文部省解体論」を発表し、対立が先鋭化し、ヒートアップした。

香山氏が亡くなった後、机の中から「忍」という多くのメモ書きが発見されたが、この対立の渦中にあって、香山氏の「自由化論」への風当たりがいかに強かったかを雄弁に物語っている。

第一部会終了後、赤坂にある社会工学研究所(牛尾治朗社長、黒川紀章所長)に移動して俵孝太郎専門委員と3人で「教育の自由化」をめぐる対立をいかに収めるかについて「戦略会議」を定期的に行った。

教科書調査官は事務職に過ぎないために優秀な人材が集まらないことを立証する文部省の内部文書が、元社会科教科書主任調査官の村尾次郎氏が明星大学戦後教育史研究センターに寄贈された「村尾次郎文書」に含まれていたため、私が拙著『教科書検定』(中公新書)で公表し、香山氏が臨教審総会で取り上げて真正面から議論したために、文部省は強く反発した。

●「和と多様性」をめぐる臨教審論議

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