「日本的霊性」の核心と道徳の根底一西田幾多郎・鈴木大拙の根源的な問題提起を現代に活かせ

●日本的霊性の知的展開と情的展開 
 鈴木大拙は昭和19年に『日本的霊性』を刊行し、日本人に共通の宗教意識が形成され、それは鎌倉時代になって、法然一親鸞の宗教において自覚的になったと指摘している。深い宗教意識を霊性と表現したことが注目されるが、その日本的霊性の知的展開が禅、情的展開が法然一親鸞の浄土教であり、そのどちらにも、日本独自のものがある。
 浄土三部経(『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』)は、インド{もしくは西域)で生まれたが、法然は専修念仏の仏道を確立し、法然の弟子となった親鸞は、それこそ浄土の真宗であるとして、その核心を訴えた。
 鈴木大拙は、その法然一親鸞の浄土教に至って、インドにも中国にもなかった救いの道が開かれ、日本で初めて自覚化されたものであるから、その宗教意識を「日本的霊性」と呼ばざるを得ない、と指摘している。では、その日本的霊性の特徴は一体どのようなものなのであろうか。大拙は、そのことについて、次のように指摘している。

<親鸞は罪業からの解脱を説かぬ、即ち因果の繋縛からの自由を説かぬ。それはこの存在一一現世的・相関的・業苦的存在をそのままにして、弥陀の絶対的本力のはたらきに一切まかせると言うのである。そうしてここに弥陀なる絶対者と親鸞一人との関係を体認するのである。絶対者の大悲は、善悪是非を超越するのであるから、此方からの小さき思量、小さき善悪の行為などでは、それに到達すべくもないのである。…これが日本的霊性の上における神ながらの自覚に外ならぬのである。シナの仏教は因果を出で得ず、インドの仏教は但空の淵に沈んだ。日本的霊性のみが、因果を破壊せず、現世の存在を絶滅せずに、しかも弥陀の光をして一切をそのままに包被せしめたのである。これは日本的霊性にしてはじめて可能であった。(『鈴木大拙全集』第8巻、106頁)>

●日本的霊性の核心一インド・中国の仏教との相違点
 中国の仏教は、念仏したら救われるという因果関係を超えることができなかったし、インドの仏教は救われたらそれでおしまい、涅槃に入ったらそれでいいという傾向があったが、法然一親鸞においては、苦しんでいるその苦しみから逃れるとは言わない、この身このままで、あくまでも絶対者としての阿弥陀仏の側から包まれ、救われると説いた。煩悩を断たずしてしかも涅槃を得るという境地が開かれるというのである。
 すべては阿弥陀如来がはからって下さるという気づきである。このような救いの自覚が「日本的霊性」に他ならない。それはインドにも中国にもないないがゆえに、日本独自のものだと大拙は主張するのである。この救いの自覚が、ある特定の宗教者に自覚されただけでなく、さらに多くの一般大衆の信仰として浸透しているという点に注目する必要がある。それが「日本的霊性」と言われる所以である。このことを、大拙は次のように解説している。

日本的霊性の情性的展開というのは、絶対者の無縁の大悲を指すのである。無縁の大悲が善悪を超越して衆生の上に光被してくる所以を、最も大胆に最も明白に闡明してあるのは、法然一親鸞の他力思想である。絶対者の大悲は悪によりても障ぎられず、善によりても拓かれざるほどに、絶対に無縁一一即ち分別を超越しているということは、日本的霊性でなければ経験せられないところのものである。(同、28~29頁)>

 無縁の大悲というのは無差別・無条件の大悲ということであり、絶対者の無条件の大悲は、こちら側の分別を超越しており、この身このままで救われるというのである。ここに「日本的霊性」の核心があると言える。

●「逆対応の論理」と「自覚の論理」とは?
 西田幾多郎は鈴木大拙宛に次のような手紙(昭和20年3月11日付)を送っている。

<従来の対象論理の見方では宗教というものは考へられず、私の矛盾的自己同一の論理すなわち即非の論理でなければならないといふことを明らかにしたいと思ふのです。私は即非の般若的立場から人といふものすなわち人格を出したいと思ふのです。そしてそれを現実の歴史的世界と結合したいと思ふのです。>

 昨日のnote拙稿で取り上げた西田幾多郎の最後の大作論文である「場所的論理と宗教的世界観」(『哲学論文集第7』所収)は西田哲学の最後の仕上げと見ることができるが、西田は次のように指摘している。

<われわれの自己はただ死によってのみ逆対応的に神に接する。神と人との対立はどこまでも逆対応的である。故にわれわれの宗教心というのは、われわれの自己から起るのではなくして、神または仏の呼び声である。この故にわれわれは自己否定的に、逆対応的に、絶対的一者に接する。死即生、生即死的に、永遠の生命に入るということができる。>

 この「逆対応の論理」は、人間の真実存在一宗教的実存の生死の「場所的論理」に他ならず、最も具体的で包括的(ホリスティック)な論理と言える。西田は「現実は根源を持つ」と考え、この現実の根源(「根源的場所」)が生死の場所と捉えて、次のように指摘している。

<仏教において観ずるということは、対象的に神仏を観ることではなく、自己の根源を照らすこと、省みることである(『哲学論文集第7』)。自覚において、われわれは単に自己の内に入るのではない。自己の根源に返るのである。しかしてそれは世界成立の根源に入ることにほかならない。自己が始まる時、世界が始まる。世界が始まる時、自己が始まる。宗教の立場は自覚の立場である。それは道徳の根底となる立場である(『同第6』)。>

 「逆対応の論理」とは、宗教体験の論理に他ならず、「われわれの自己が神や仏と同一方向において、神や仏となるとか、これに近づくとかいうのではない。ここには逆対応ということが考えられねばならない」という西田の指摘が最もよくこの論理の性格を表している。人間は、自己が徹底的に否定されればされるほど自己の根源に還り、自己の真源(西田の言う真の「個」)に徹し、自己が徹底的に死ぬことが、逆に真に自己が生きることに繋がるのである。
 西田の「矛盾的自己同一」とは、矛盾とか対立とかをなくすことによって同一になるのではなく、むしろ逆に矛盾を徹底的に尖鋭ならしめて、否定をバネにして、非連続的に連続することを意味する。
 私たちは、存在をそのあるがままの相において把握しようとする「存在の論理」に徹するならば、必然的に自己の主体的な深まりの論理である「自覚の論理」へと進み、「見」というすべての仏教の教説に共通している根本体験に行き着く。
 それは「即非の論理」を単に”A=非A”としてではなく、”見(A=非A)”として見るということである。ここに「自覚の論理」としての「即非の論理」の意味があると言える。

●「対立」を乗り越える新しいパラダイムへの転換
 現代の危機や対立・分断の根源にある論理は、自同律(AはAであるという)と矛盾律(AはAであるから、非Aではないという)を原理とする悟性のみに従って行動してきた近代合理主義である。これに対して、Aが存在するのは非Aが存在するからで、非Aが存在するのはAが存在するからである、というように相互依存関係において捉える原理を相互律という。
 部分と全体、生と死、善と悪、有と無などの単純な二分法論理に立脚した対立図式で捉えるのではなく、般若系の仏教思想や西田哲学の「即非的自己同一」というホリスティックな共存関係として捉える必要がある。
 昨日付けnote拙稿で論述したように、西田幾多郎の「絶対矛盾の自己同一」、鈴木大拙の「即非の論理」、『中庸』の「天地の化育に賛ずる」、『モラロジー概説』において「天功を助く」と説いた廣池千九郎の道徳科学にも共通するものがあると言える。Aと非Aという絶対に矛盾するものの自己同一を示すのに、「即」という言葉、文字を用いた西田の直観的感性には驚嘆せずにはおれない。
 対立・分断が深刻化している今日、自同律、矛盾律で他を排除し、他と対立するのではなく、いかにAと非Aが調和共存していくかこそが求められている。Aが非Aを敵視するのではなく、Aが非Aによって存在し、非AはAによって存在するという根源的な関係に深く「気づく」ことが大切なのである。
 危機に瀕した人類の未来は、私たちがこの真実の関係にどれだけ気づくかにかかっていると言っても決して過言ではない。現代人(子供も大人も)に幸福観(ウェルビーイング)や生き甲斐が枯渇しているのは、この真実の関係性の精神的絆を見失っているからに他ならない。
 最も相性の悪い人こそ、自分には最も必要な、自分を成長させてくれるかけがえのない存在なのだということに気づくことが大切なのである。相手を変えようとするのではなく、まず「自分が変わる」「主体変容」こそが求められているのである。
 これを師範塾や「親学」の講座では「心のコップを上に向ける」=「プラス思考」と表現し、大谷翔平の「目標達成シート」にも「プラス思考」と明記されている。教育界を初めとする様々な不毛な対立・分断を打ち破るためには、「共感・共活・共創」という新しいパラダイムに立脚した「日本的霊性」の現代的展開、「日本発ウェルビーイング」としての新たな国際発信こそが必要だ。
 
 

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