国際平和のための哲学・思想

 麗澤大学国際問題研究センターの授業で、「国際平和のための哲学・思想」について講義した。今秋には「SDGsとウェルビーイング」についての講義も担当する。
 G7広島サミットで「永続的な平和を取り戻すために必要な限り、ウクライナへの揺るぎない支援を再確認する」「平和や繁栄、平等、持続可能な開発を促進するための手段は民主主義だとの信念を再確認」「ウクライナとの直接対話も含め、国連憲章に基づく包括的な和平実現を支援するよう促す」と宣言した。
 「平和」とは一体何か?「平和」とは、単に「戦争のない状態」即ち、無条件の生命尊重ではなく、戦争のない状態を作り出すための戦争でもある。ロシア・ウクライナ戦争の背景には、西側諸国の「自由・民主主義等の普遍的価値」対ロシア・ナショナリズムという価値観・歴史観・宗教的精神の対立という根本問題がある。

米国史観に基づく「太平洋戦争史」と永井隆『長崎の鐘』

 各国は自らが信じる絶対的正義による世界秩序の構築によって「世界平和」が実現すると考えている。戦争とは「正義」の国と「邪悪」な国との戦いであり、太平洋戦争は正義の英米民主主義国と邪悪な「悪の枢軸国」日独伊全体主義国との戦いであったと、「太平洋戦争史」には明記されている。
 WGIPの陣頭指揮を執った占領軍民間情報局のブラッドフォード・スミスが取りまとめた「太平洋戦争史」の英文原稿を在米占領文書の中から発見したが、「太平洋戦争史」のベースになったのは米国国務省編「平和と戦争」という米国政府の公的歴史観であったことが判明した。
 「二度と過ちは繰り返しません」と原爆記念碑に明記された「過ち」とは、米軍が原爆を投下した「過ち」ではなく、日本が「侵略戦争」を始めた「過ち」を意味していると、戦後の歴史教育では教えてきた。
 長崎で被爆し飛び散ったガラスで頭部に大けがをしながら、自らの命を顧みず医師として救護活動に奔走した永井隆博士が昭和24年に出版した『長崎の鐘』は、特別付録「マニラの惨劇」を併載することを条件にGHQは刊行を許可し、ベストセラーとなって映画化された。
 地元の高校生が永井博士の意思を継承し、三刀屋高校の演劇部が全国高校総合文化祭に中国ブロック代表として出場し、永井博士の人生を描いた「永井隆物語」を上演し大きな反響を呼んだ。

●「自由」とは何か?一3つの英訳と日本独自の自由観

 ところで、「自由」とは一体何か?かつてフランスのバカロレア試験問題の「”自由になる”ことの意味は何か」という出題が注目を集めたが、エーリッヒ・フロムの著書『自由からの逃走』に描かれているように、「自由」になっても「自由からの逃走」が始まる。
 大谷翔平選手のような「志・目的・目標」がなければ、「自由からの逃走」が始まるのである。「自由」には、自ら勝ち取った「後天的自由」を意味する”liberty"、「先天的自由」を意味する”freedom",生死を超えた悟りの境地である「涅槃・解脱」を意味する”nirbana(ニルバーナ)”などが含まれている。
 また、日本語の「自由」とは「自らに由る」という意味で、鈴木大拙は「松は竹にならず、竹は松にならずに、各自にその位に住すること、これを松や竹の自由である」と、日本独自の「自由」観を表現した。各自のオンリーワンの個性を十分に発現し「自己実現」を遂げることが「自由」の本質と捉えたのである。

●「もったいない」という日本語の語源

 環境分野で初のノーベル平和賞を受賞したケニアのワンガリ・マータイさんは、「もったいない」という美しい日本語を環境を守る世界共通語「MOTTAINAI」として世界に広めることを提唱し、持続可能な循環型社会の構築を目指す日本発の活動として世界に発信した。
 マータイさんが亡くなった後も毎日新聞がその意思を引き継ぎ様々な活動を展開してきたが、SDGs(持続可能な開発目標)やウェルビーイングという今日的視点から再評価する必要があろう。
 「もったいない」の語源である「物体」とは「物の本来あるべき姿」を意味し、それがなくなるのを惜しみ、嘆く仏教用語が「もったいない」である。「OMOTENASI」という世界共通語とともに、日本発のSDGs・Well-beingの国際発信のキーワードとして見直す必要がある。

●「開発の暴走」は人類を「持続不可能」にする危険性

SDGsを全会一致で採択した2015年9月の国連「持続可能な開発サミット」で、「我々の世界を変革する一持続可能な開発のための2030アジェンダ」が採択され、「平和なくして持続可能な開発はあり得ず、持続可能な開発なくして平和もあり得ない」と宣言した。
 そして、持続可能な開発目標として、「平和(peace)」「人間(people)」「地球(planet)」「繁栄(prosperity)」「パートナーシップ(partnership)」の5Pを掲げた。
 この「平和」と「開発」の関係については深い洞察が必要である。「持続可能な開発」という言葉が出現したのは、1987年のブルントラント委員会の報告書においてであったが、文化や慣習という防御装置(ブレーキ)が効かない「開発の暴走」は地球環境を破壊し、人類そのものが「持続不可能」となる危険性がある。
 SDGs策定の歴史的経緯を踏まえて、その思想的背景を十分に吟味し、課題を明確化する必要がある。「南北からグローバル化へ」という第一の流れ、「課題システムから包括システムへ」という第二の変化、「主権国家体系から地球社会へ」という第三の変化という思想的変遷を踏まえて、玉石混交のSDGsの17の目標を日本が提唱したホリスティックな視点に立脚したESDの視点から本質的に捉え直して有機的な連携を図り、根本的に見直す必要がある。
 現状では浮き上がってしまっているSDGsの目標16「平和と公正を全ての人に」と他の16の目標とを明確に接合させるとともに、「常若(とこわか)」という日本の伝統文化に根差した日本発SDGsのビジョンを国際発信することが時代の要請である。
 
●「ジェンダー」を否定すれば人類は「持続不可能

 「開発」によって生態系を改変すれば、「持続可能性」は損なわれ、持続可能な開発目標を達成できなくなる。また、SDGsの目標5「ジェンダー平等」の実現を目指して、後天的な文化的社会的性差(ジェンダー)を否定すれば、人類は「持続不可能」となる。
 男女(雄と雌)の「5億年の有性生殖の命の伝統」(縦軸の”共通性”)と「ジェンダー」という横軸の”多様性”を混同してはならない。生命は共通だが多様、多様だが共通という「生命誌」(中村桂子)の視点を見失ってはならない。「性の在り方はグラデーション」等という科学的根拠のまったくない活動家のトンデモ俗説を小学生から教えるなど言語道断である。

●「日本精神」の3本柱が「世界平和のための哲学・思想

 WGIPを陣頭指揮したブラッドフォード・スミスは1942年に世界の共産化を目指すコミンテルン系の雑誌に「日本精神」「日本 美と獣」と題する論文を発表し、神道・皇道・武士道が「日本精神」の3本柱と捉え、「精神的武装解除」の中核に位置付けた。
 しかし、その論文執筆から81年を経た今日、国連事務総長から石清水八幡宮の田中朋清権宮司が「SDGs文化推進委員長」に任命され、SDGsに欠落している哲学を神道の鎮守の森の精神で補ってほしいと依頼されたことは隔世の感があり感慨深い。
 歴代天皇が日本の「国柱」の精神として重視してこられた「皇道」は、「民に利有らば、何(いずく)にぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ」と書かれた「詔」に基づく明治維新の「王政復古の大号令」に「至当の公議を謁し」、五箇条の御誓文に「万機公論に決すべし」「天地の公道に基くべし,万民保全の道を立てんとす」、聖徳太子の17条憲法に「和を以て貴しと為し」「事は独り断ずべからず」と明記された。
 「武」の語源は「戈をとどむ」即ち「平和」の精神に他ならない。新渡戸稲造が英語で世界に発信した「武士道」は世界共通の普遍的価値観(仁、義、礼、智、信、名誉、克己など、ノーブレス・オブリージュ)を含んでいる」と新渡戸自身が著書『武士道』で強調したように、世界の平和と友好を深める哲学・思想のベースになるものである。
 WGIPが目指した「精神的武装解除」の中核としてターゲットにした「日本精神」の普遍的価値を今日のSDGs・Well-beingの視点から根本的に見直す必要があろう。それなくして安倍元首相が強調した「戦後レジームからの脱却」はあり得ない。「世界平和のための哲学・思想」はまさにこの「日本精神」の中にあるのである。


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