「新型コロナの今、考えたい学校のストレスと危機管理:生活習慣病的危機における学校だからできる貢献」『SYNAPSE』2020年7月号,pp.36-41.

今までにない生活習慣病的で社会科学的な危機管理


 東日本大震災原発事故で「フクシマ50」との美談が語られるが、米軍はこの犠牲を最小限にとどめる発想では対処人員が足りず問題の短期終結を危ぶんだ(『カウントダウン・メルトダウン』文春文庫)。事故や自然災害の中、一時の損失を顧みず人員・物資を投入し危機の根源を断つ米国的発想から学ぶべき部分は多い。しかし、このように喩えるなら外科的危機管理の発想は感染症災害では、かえって空回りする恐れが指摘されていた。外科的危機管理が結束や英雄的貢献といった華々しい短期決戦的性格であるのに対し、感染症災害は生活習慣病対策のように自己管理の地味で気の長い生活習慣変容という逆のものを必要とするからである。また、防疫上の判断は区別と差別の境界を曖昧にしやすく、反発と暴力的混乱が懸念されてきた。これらは公の議論すら憚られ、現実にはあり得ないゾンビを題材に軍事演習(『CONOP8888』)や国際戦略研究(邦訳『ゾンビ襲来』白水社)が論じられている。
本年3月上旬の時点で世界的感染拡大を中長期に緩やかに受け入れていくことが犠牲者を最小限にするとする自然科学(人の都合を度外視する科学)的議論がなされ(例えば、『MEDIUM』における「The Hammer and The Dance」や「Don't flatten the curve」)、世界中の自然科学者で共通理解となり自体推移はほぼ予測通りだが、別に社会科学的危機も始まりつつある。感染症災害の長期化は労働や学習の時間と場所を分散し、今までの経済や文化・生活習慣を一部あきらめて変化させながら医療の専門家の指導に従い続けることとなる。生活習慣病的危機管理は多大なストレスに個々人が自立して耐えつづけ、変化する科学の指示に長期間振り回されることを受け入れつづけるような、人の都合に配慮する科学(社会科学)の課題でもある。
本稿では従来の危機管理論を整理しつつ、新型コロナでは通用しない部分を整理する。その上で、ストレスが社会的混乱にどのようにつながるかを考える。結論を先に言えば、学校教育という社会関係基盤こそが生活習慣病的危機管理といえる今回の新型コロナと付随の災害に中核的役割を果たしうる点を提起したい。

従来の危機管理の想定と異なる生活習慣病的・社会科学的危機


 もともと学校経営が注目してきたのが危機発生確率(リスク)を経営で抑制するリスク管理論で、これは“事前準備の危機管理”ともいえる。リスクを下げる学校経営上の配慮として、例えば、「ひやり・はっとの法則」(ハインリッヒの法則)が挙げられるが、これは事故や自然災害など個々の小さなリスク対処の法則論であり、指数関数的に発生率が変化する感染症には対応できない。また、“感染を確実に防ぐ”ではなく、“できるだけ感染しにくくする”発想つまり“ある程度は感染を受け入れる”発想は従来のリスクの定義に収まりきらない課題でもある。
 危機が発生(クライシス)した際の被害抑制対応をクライシスマネジメントと呼ぶ。これは「危機管理」として最もイメージしやすい“狭義の危機管理”である。例えば、訓練の上での素早く混乱のない避難や救命救急、チェックリスト等での一斉の対処実施などが挙げられる。しかし、今回の新型コロナは指定感染症なので対応は地方自治体首長の責任・権限であり、学校にはクライシスマネジメントにおける主体的出番はほぼない。
 危機の事後に日常回復をはかっていく身体的・心理的ケアを危機介入と呼ぶ。臨床心理学や社会福祉的な手法を取ることが多い(『危機への心理支援学』遠見書房)。学級担任以外にもスクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカー、健康教育が専門の栄養教諭・養護教諭など様々な教職員が昔から日本の学校を生活の中での学びと、大衆教育(エリート教育とは逆の側面に力を入れる発想の教育)に力点を置いて支えてきた。新型コロナに経済も文化も地域も振り回される。その経済と文化と地域に学校も振り回されることになろう。しかし、その都度の新しい日常の社会や生活の回復をはかる危機介入にこそ日本の学校が最も活躍できる機能であり貢献があるといえる。
 上記に合わせて、長期化する生活習慣病的危機の視点で追記したいのが社会科学的な仕組みで起こる人災である。例えば、科学的根拠のない「空間消毒機」購入で公費執行を行い健康被害にもつながりかねない事例が起きたし、今現在ほぼ確実な検査方法がないのに発熱者などに“新型コロナに感染をしていないことの証明”を求める事例もあった。さらに、夏を迎えマスクの熱中症リスクと感染症予防効果を“リスクの天秤にはかること”(リスクのトレードオフ)も求められることとなる。これら自然科学的根拠が追い付かないことで判断の結果によっては人災になりかねない種類の課題である。未だ謎の多い新型コロナについては区別と差別(根拠のない区別)の境界はとても曖昧なものであり、ここに科学的根拠と倫理的な妥当感が不足すると暴力的混乱につながる。いずれも不安やストレスが新型コロナ以外の人災につながりかねない難しさを有している。

ストレス由来の攻撃性が社会的混乱の要因


 では、ストレスがなぜ社会的混乱を生みかねないのかを以下の図で考えたい。

情報を知り考えた上で負担や不安を感じる(認知)仕組みをストレッサーと呼び、これにより緊張感が蓄積する過程がストレスである。負担や不安を感じる人の個性や状況、緊張感の重さなどで時間差があるが、図の①に示したようにまずは心理的ストレス反応(イライラや落ち込みから始まり最終的には神経症やうつ病)、次いで行動的ストレス反応(ミスや事故、問題のある言動など)、最後に身体的ストレス反応(睡眠の不安定化や心身症)が顕在化する。子どもや保護者のストレスによる様々な問題の顕在化は数か月単位で遅れてくると予測される。また、東日本大震災の際の教職員の身体疾患のピークは1年以上遅れてから顕在化しており(例えば、『復旧・復興へ向かう地域と学校』東洋経済新報社)、新型コロナを巡るストレス諸問題は「忘れたころにやってくる」と考えていい。
負担や不快を感じると、人はそこに積極的な意義を見出そうとしつつ、課題解決や気晴らしなどの行動も併用する(ストレス対処)。ストレス対処はストレッサー自体の理解の仕方に影響し (②)、ストレッサーからストレス反応にいたる緊張蓄積の流れを喩えるなら水門のように時間稼ぎ的に緩和する効果も持つ(③)。しかし、このストレス対処のうち依存(欲求の対象が過剰な快楽ゆえに後々やめたくともやめることができなくなる性質)のある考え方や行動は、人格や生活を歪ませるという別のストレス由来の問題を生む(④の依存症)。
依存は嗜癖や“偽りの癒し”などとも呼ばれ、本人が要治療の自覚を感じるまで依存症とは定義されないため、生活習慣病的曖昧さを持つ。学校教育に関する文脈で依存の問題はあまり論じられていないので、解説しておきたい。依存には薬物・アルコールや過食などの“物への依存”、ギャンブルや買い物、極端な遊びなど“サービスへの依存”、さらに、攻撃性の発揮や承認欲求充足を期待した過剰な言動といった“行為への依存”がある。過剰な言動といった行為への依存はいじめやハラスメントの原動力であり、“困っている人が困った人になっていく”“人間関係が引っ掻き回されていく”過程としてどこの組織でも思い当たるであろう。例えば、モラルハラスメントは“正しさのために攻撃性を発揮”するのではなく“攻撃性という快楽に依存した人が欲情するはけ口として「正しい」を探す”人格・行動の歪みである。依存は誰もがはまりかねないため、高ストレスな時代や組織では「正しい」の判断基準(倫理)とそれに準拠した行動(規範)は歪みやすい、と考えたほうがいい。称賛や同情で快楽を得る承認欲求への依存行動はこれと同時進行しやすく、小集団の極端な先鋭化(カルト化)につながり社会や組織や集団の対立と混乱のもとになる。1960年代末の受験のストレスを背景とした高校・大学紛争と、これらを生徒・学生として経た一部の教師の体罰などが80年代前半の生徒指導問題の原因となったことは概ね以上のストレス性依存の問題で説明できる (『教師のキャリアとメンタルヘルス』ナカニシヤ出版)。
これらを考えた上で学校は新しい生活の枠組みを倫理や規範として提案する最前線である以上、攻撃や承認の依存性の極端な言動で混乱しやすい場であること、さらに社会科学の「正しい」の判断には常に人への配慮であり優しさのようなものを押さえないと危険である点を強調したい。

倫理観も規範も集団の現時点での平均的判断にすぎない


「正しい」とはなんだろう。大学の社会科学系教員担当の倫理や哲学の授業は歴史解説が中心でこの答えを準備できない。自然科学もデータの平均を基に「危険が確認できない」ことをもって「とりあえず安全」を判定するような限界がある。今、無理に新型コロナの不安払しょくを追求すれば、「危険が存在しないことの確認」という自然科学では不可能(「否定の証明」)で、無限のコストと別の危機リスクを増す不毛な人災を生みかねない (『「ゼロリスク社会」の罠』光文社新書)。この自然科学の限界と社会科学として変化し続ける法令に左右されつつ、日常に「とりあえず」の「優しい」を踏まえた「正しい」の判断を担う感覚が学校に求められる倫理であるといえよう(図)。

コンプライアンスという言葉が「法令遵守・倫理遵守」と訳されているように、法令が規定しない範囲の「正しい」の判断は人間関係の範囲である社会や組織の平均的意見・判断基準にすぎず、平均化された意見は極端な意見に引きずられやすい(『ファクトフルネス』日経BP)。注意したいのは組織や集団の人間関係の力学の中で個々の倫理や規範が平均的に形成される点である。そのため、社会全体の倫理と学校の中の様々な集団の小さな倫理が乖離することに注意が必要である。80年代以降、生徒指導問題に付随した暴力的な体罰や校則といった学校の中の倫理・規範が社会全体のものと乖離していることに批判がなされたことを思い出してもらいたい。多少の誤差や間違いや混乱は犯しつつも、学校の倫理・規範に優しさを読み取ることができれば、攻撃的依存に基づく大声のクレームに苦しめられても、大多数の声までは上げない日本人の支持は得られるはずである。

学校経営だからこそストレスに配慮した、とりあえずの倫理と規範が提案できる


 体育や家庭科、歯磨き、食育、早寝早起き朝ごはん、うがい、手洗い、マスクなど生活習慣を国民皆が学校で身に就ける。とりあえずの、優しさのある倫理や規範の整理を学校が行えば、子供を通して保護者も地域住民もこれに付き合って社会生活よくなってきたことを近代日本の学校史は教えてくれる。新型コロナへの生活習慣病的危機管理の発想に基づき、決定打のないコツコツとした努力を学校が率先して試行錯誤することに意義がある。
あわせて、ストレス論と戦後学校史を踏まえて指摘したいのが、問題を起こしやすい人はストレスを貯めて大多数や平均から取り残されそうになった人で、日本の学校はそういった子供や保護者が孤立したり攻撃性の依存に陥りにくいような配慮を大衆教育的発想で大切にしてきた点である。この日本の学校が伝統的に人のストレスを理解し配慮しつつ、社会生活改善の提案につながる倫理や規範を率先してきた優しい機能が、今のところ新型コロナで欧米ほど日本社会が混乱していない大きな要因の一つであろう。
2月の休校措置は「是」からも「否」からも猛烈な攻撃があったように、当面の学校教育はどのような方針の選択をしても攻撃を受けやすいと思われる。事後その選択の正しさが評価されても、詫びも称賛も得られずに、社会全体のストレスが収まらない以上、ストレス発で依存由来の倫理の攻撃は続くものである。生活習慣病同様に、源となるストレス自体に根気強く付き合う必要がある。本当に大変なことだが、教職員が健康を維持しつつ、学校の日常を模索し続けることが、新型コロナ後を見据えた学校にしかできない貢献となるはずである。


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