「言葉は自分で入れない限り、入らない。」


私の好きな腸の言葉です。

どういう事かと言うと、
他人から何か言われても、

それを自分が認めなければ自分に入らないよ。

その言葉は、他人から言われたから
自分はそう思ってしまった。
「あの人のせいだ。」
って、考えているかも知れないけど、

自分がその言葉を認めて、
自分にその言葉を入れたんだよ。

自分があなたが自分で入れたんだよ。

という意味です。

この言葉でとても救われました。


外見の言葉で、私に入ってしまった言葉と、入らなかった言葉。

私が外見で、人から言われて私に入れてしまった言葉が一つあって、
それは「デブ」です。

言われたのが思春期という事もあって、自分の中に入ってしまった。
全く太ってなかったのに、
(当時の写真を見ても、BMIからしても標準)

ダイエットをして、失敗して、
万年ダイエッターとしての人生が始まりました。

いっときは、学生の頃に自分のベスト体重から12キロ増えた事が有りました。

腸の勉強をし始めてからは、すっかり解放されたんですが、
19歳から20年以上、その考えに囚われていました。

痩せたり太ったりの繰り返しで、痩せてもまだ痩せたい。
って思ってしまって、ずっとスパイラル。
完全にその言葉に縛られてました。


逆に、他人から言われても自分に入れなかった言葉も有ります。
それは「ブス」です。

私に「ブス」という言葉が入らなかった理由で一つ思い当たるのは、
おばあちゃんが言ってくれた言葉にあると思います。

私のおばあちゃんは、
何年かに一度くらいしか会えなかったのですが、
おばあちゃんはとっても可愛い人で、私は密かに大好きでした。
(面と向かって「おばあちゃん、大好き」とか言える子供ではなかった)

会うたびに、
「○○ちゃんは、大きくなったら美人さんになるね」
と言ってくれていました。
だから、私は大好きなおばあちゃんが言うのだから、間違いない。
と無意識レベルでそれが染み込んでいて、
大きくなる頃には「私は美人だ」と思う事に成功しました。
(実際には違うけど、おばあちゃんは会う子どもみんなに言ってた!)

なので、誰かから「ブス」と言われても、
「あ、私はブスなのか」と思った事があんまり無い。
その言葉が私にはどういうわけか、入らなかった。
それが事実かどうかは関係なく。

「デブ」は入っても、「ブス」は入らなかった。


行動の癖が自分に入ってしまった。

ここまでは外見の話で、

自分の行動の事を言われて苦しんできた言葉も有ります。

今でもその言葉に苦しんでいる自覚がある。
いい加減、もうやめたい。

今の自分の直したい癖は、父からずっと言われてきた
「ああしなさい。こうしなさい。」の部分にある。
父のせいだ。

結婚してから、私の事を全く変えようとしない夫と生活してから、
本当に人を愛しているとどういう行動になるのかを知って、

それから父の愛は他人を自分の思うように変えたいだけだった、
と分かり、

その言葉を私に言い続けていた父を憎く思ったりして、
それはそれでけっこう辛かった。

私が父の言葉を入れたのは、
どうしたら他人から愛されるか。
みたいなところで、

もう、ほんとにこれをやめたい。

これをやってると本当に苦しい。

私の行動の癖が、もう完全に父から言われてきた言葉
そのもの。

無意識でやってしまう。

一時は良い。
父から言われてきた事を行動してきて、
確かに、他人からの評価は上がったし、
人気があればそれはそれで、気分が良いかもしれない。
でも、それがなくなった途端に落ちる。

ジェットコースター。人生が。

私はこのジェットコースターに乗ってることさえ
気が付かないで生きてきて、

腸の勉強をしだしたら、
「私、ずっとジェットコースターの人生だったんだ。」
と知って、愕然とした。

表面的には、それで成功するけど、
他人の目を気にしての行動だから、

ずっと続けていると苦しくなる。


自分が犯人


でも、腸の
「言葉は自分で入れない限り、入らない。」

という言葉を聞いて、
その言葉を入れてしまったのは、自分だったんだ。

私の思い込みを作ったのは、私自身に他ならなくて、
私がそれを受け入れて、自分が行動に移した。

その言葉を入れたのは自分自身だった。

という事が分かって、ものすごくスッキリした。

私が「ブス」と言われて、その言葉を自分に入れなかったように、
私は父の言葉を入れない事もできたんだ。

私がその言葉を入れた張本人だった。

腸の勉強をしていると、
苦しんでいた物事に対して、

犯人は自分だったんだ。
ということがとても多い。

いかに自分が自分を知らないか。
見てこなかったのか。

何か悩みがあっても、
私はそのことから目を背けて、
その時に楽しいと感じることばかりしていた。

いっときは忘れられるし、
リセットされたような気になるけど、

その楽しい事をしていた時間に、
水面下では、
私の悩みの種である自分自身がすくすくと育っていて、
対面しなくちゃいけない時がくる。

腸の勉強をしていると、
その対面して自分自身を掘ってる時間は
少し苦しくて痛く感じることも有りますが、
「これっだったのか。」
「この考え方が自分を苦しめてたのか!!」

と、分かる瞬間がある。
自分の事を知れるって、なかなか難しい事だと思う。


とにかくノートに書き出す。
何が辛いのか。
何に苦しんでいるのか。

細かく見ていく。

その時に分からないことも有るし、
その時に解決しない事も有る。

ただ、「この事について分からない」
という自覚があるので、

ある時聞いた腸の言葉で、
「これだ!!」
「私が分からなかった部分の話してる!!」
と急に開ける事がある。

そして疑問を持ちながら生活して
ある時にふと分かる事もあるし、

(私は食器を洗っている時、洗面所にいる時、
洗濯物を干している時、によくある。)

とにかく書き出すという作業が大事だと思う。

腸の言葉を一回聞いただけでは分からない事も、
何度も聞くと、
点と点がつながって、
急に頭に答えがポン!
と浮かぶ事もある。


私が分かった事だけでも、
腑に落ちた事だけでも、
私はすぐに忘れてしまうので、書き残しておく事にする。

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