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“離見の見”からの、“虚実皮膜”
昔からずっと、客観視がうまくなりたいと思っていた。
私にとって客観視とは、世阿弥いう「離見の見」のイメージで、広く全体像を見渡して、マクロの視点から自分の立ち位置やふるまいを的確に捉えること、というふうに解釈している。
以前、能を舞う役者の立ち居振るまいや所作は、笛や小鼓、それから舞台装置を含めてすべての動きによって都度変わってくるものであるということ、それが熟練の域に達すると(プロは皆、当たり前にできているのだと思う)身体はまわりの微細な変化や動きを感知して、ひとりでに動き出すと聞いたことがある。
実際このレベルまでいけたら、本当、なんだってできてしまうのだと思う。しかも、達人の域にまで。
ある種、トランス状態。
全体性の中で、一つひとつの微細な音や動きが共鳴し、重なり合いながら、最適な動きが規定される。ただ、規定されるとはいえ、静止ではないのだ。
常にたゆまぬ動きが連続性をもって連なり、瞬間ごとに景色を変えていくので、片時もとどまることがない。
これは勝手な憶測だが、この時の身体はおそらく全体性というシステムの中で、自動装置のようにオートマティックに動いているのだろう。
それは予め設定されたことを、予定調和のように淡々とおこなうのとは違う。
一瞬一瞬変わるごとに、立ち居振る舞いを変化させていかなければならないから、とても大変だ。(一見、涼しげに佇んでいるように見えるけれども、まさに真剣勝負)
すべてが相互に関連し合い、連鎖して大きな流れを生み出すシステムの中でこそ起こりうる、高度な瞬間芸であり、理論では到底説明がつかない身体技。
だからこそ、たまらなく惹きつけられるのかもしれない。
これはきっと、あらゆるダンスに共通する部分もあるだろう。
前段が長くなった。
私が客観視ができるようになりたいと思う理由は極めて単純で、時々マイペースが過ぎて、自分の世界に没頭しすぎることがあるからだ。
もちろん、没頭にはメリットもたくさんあるので、すべてが悪いとは思わない。けれども、そんな時決まって顔を出す悪い癖がある。
没頭しすぎると周りから見た自分の姿を、冷静に考えら得なくなってしまうこと。そして、それが度を越すと自暴自棄に陥いる可能性がなきにしもあらず、ということだ。
もちろんそんな時私はふと我に返って、「外側から見た自分を意識してみよう」と思ってはみるものの、それも束の間。
今度は意識が逆方向に引っ張られて、外側で起こっていることが途端に気になりだす。
典型的な物好きの特徴といってしまえばそれまでだが、それが極にふれると、時として自分の心を見失うことにもなりかねない。
こうなると、そもそも、自分とは何か?という原点の問いに辿り着くのだけれど、この文章を書きながら、その解答がほんの少し見えた気がした。
没頭、内省、瞑想
など、
内に向かう心の作用はいかようにも表現できるが、自分の内面を深く掘り起こして見ることは大切だし、必要なことではある一方で、外側にも目を向けて、ときに注意深く観察し、全体の動きの中でシーンに合わせて最適にふるまい、身を処すことも大切だと感じている。
両者は矛盾しているが、それらがあやうい均衡のもとに保たれることの中に、“美”が生まれるのかもしれないと思う。
それは真実、と言い換えてもいいかもしれないし、虚ともいえるかもしれない。
となると、真実は虚なのか。
その微妙な境目、あわい、虚実の膜に、たしかなものの萌芽が立ち現れる。
それは儚い一瞬の夢に過ぎないのだと思うけれど。
能が幽玄の世界を見せてくれるのは、きっとそんな背景があるからなのはないか。
きっと、そのことを世阿弥は、「虚実皮膜」と呼んだのだと思う。