内分・外分について
霊魂(心)には、内分(内面)と外分(外面)があります。
内分とは「自身の霊魂本来の偽りのない真の心で本心」の事であります。
外分とは、「頭脳の記憶や知識、肉体など物質的感覚、快感、想念、体裁を取り繕う、執着」などの表面的な心であり、また本心を偽ろうとする心の行為であります。
人間は、「内分である本心」を「表面的な心の外分」で覆い隠していますので、内分で「悪」を抱いて、外分で「善」を行うという本心と異なる偽善や本音と建前の異なる行為は、この世では簡単に出来ます。
さらに肉体に鎮まっていますので真の内分は周りからは容易に分かりません。
「悪い事」であると内心では分かってるのに、外分で「悪い事をしてしまう」或いは、「何かを行おうと思ったにも関わらず、面倒や大変だからやめておこう、恥ずかしい、間違っていたら・失敗したらどうしようなどと尻込みしたり」というように本心を無視しての行動や妥協、また自己の体裁を気にしたり人から良く見られたいが為の「嘘や偽り」や「取り繕い」をしたり、悲しいのに笑ったり、憎いのに優しくしたり微笑んだり、という心裏腹に本心とは全く反対の言葉や行動をする事は、現世では簡単に出来ますが霊界では内分のみの状態になりますので心を偽る事は絶対に出来ません。
人間が他界後に行く霊界(天界、幽界)や、その霊界の格の高低はこの内分次第であり「どれだけ強く深く神を愛し信じる事が出来るか」と「隣人に対する愛」という真心の違いであります。
また、方便も本心との嘘偽りになります。例え、人の為や良かれと思っての嘘などの方便ではなく、本心と行い(言動)の一致が大切になりますので、言葉を選びながら本心で対応するようにしましょう。
日月神示では
「何事も方便と申して自分勝手なことばかり申してゐるが、方便と申すもの神の国には無いのざぞ・・・ 方便の世は済みたのざぞ」
「方便の世はすんでゐるのぞ。方便の教とは横の教、いろはの教、平面の教のことぞ。
仏教もキリスト教も回教もみな方便でないか、・・・」とあります。
人間は他界後に中有界に行き、表面的な心である外分の清算をして内分の状態となり、霊魂相応の霊界に行く事になります。
このように、通常死後に外分は清算されますが、この世に生きている間に外分を清算する事で本心を磨く事が出来て霊魂本来の霊的な活動もされるようになります。
これが身魂磨きという事なのです。
厳瑞
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