見出し画像

改心の理

「余計な事を言わず、黙っておけば良い」また「思った事を直ぐに口にしないで、一拍置く(一呼吸置く)」等御座いましたが、これでは、臭いものに蓋をしている事と同じなのです。
この「思った事を直ぐに口にする事」が悪い事ではなく、その口にする前が問題なのです。
口にする内容が「正しい事、良い事、必要な事」であれば良いが、悪しき事が含まれる事が問題であります。
つまり悪しく思った事が問題であり、これを無くす事、また修正する為に「どうしたら良いのか」を考える事が課題なのです。

これを何度も何度も伝えているのですが意味を履き違えて 「では話をしなければよい」「余計な事は言わない」などと言っている時点で直す事も変わる事も絶対にできないのです。

このような行為は取繕う行為であり、上辺の心を作る為ではないのです。
心の内面(本心)を隠し疎かにして、上辺の善行を癖付けようとしても真の心ではなく作られた偽りの心なのです。これが偽善なのです。

体が汚れているのに綺麗な洋服で着飾っても体は綺麗になりません。
体を綺麗にするには、着物を全て脱ぎ去り、隅々まで綺麗に体を洗う事であり、心も同じことなのです。

つまり◆<<<「自身の奥底の心を正しく綺麗に修正する事が目的なのです。」>>>◆

自らが自らの悪しき所を認め納得して自身が変えようとしなければ、自身が変わる事などできません。
人から指摘され真から納得せずに口先だけの納得の素振り(そぶり)では、この時点で後にいくら変わろうとしても変わる事は絶対に出来ないのです。

それは、すでに受け入れていない自己が中心に居るからである。
予め身構えている時は、既に受け入れの態勢で人の忠告を聞くので比較的受け入れるようにするが、
身構えていない時などに、不意に人から忠告を受けると、内心で 「 一瞬でも「怒り(腹が立った、ムカつく)」の感情が沸き上がる事 」これが本心であり問題であるという事を、何度も言っているのです。

他者より指摘された時に、一瞬「怒りなど」の感情が沸き出たその瞬間に、心では対抗心(認めず受け入れない我)が残るのです。
これが心の中心で自己防衛して座っている我なのです。
これは、この瞬間に霊界では既に怒りや行動として行われてしまったのです。

その後から幾ら他者の助言を受け入れようとしても、中心では既に認めず受け入れていない我がいる為、今までの自分自身(我)に、外面の自分が抵抗しようとしても根本的に変わる事はできないのです。
なので、その結果として表面的に自分で自らを擁護し理由を付け、納得しようと自らが逃避し妥協するのです。

私は以前より「よほどの衝撃を受けなければ変わる事(改心)は出来ない」とお伝えして来ましたが、
これは、人から指摘され、自身の奥底から本当に悪しきを認めた時には「心が折れたような放心状態のような状態」になり強い衝撃を受けるものです、それは自らが自らを審判し罪や過失を自らが心底から認める(降参する)事であるからです。
特に自らですら気が付いていない事柄に関してはなおさらの事であります。
これは生死をさ迷った者が、自らを根本的に改め人生観が変わるような時と同じであり、それ位の強い意志が無いと到底変える事は適わないのです。

しかし心が折れずに中途半端な心の傷や痛みでは、反発する我が奥底の中心に残っていて悪あがきをするので、自己防衛の現れで、自らを正当化し、自らに擁護や同情(情け)を求めたり嘘や言い訳や、人のせいにしたり、対者に愚痴や反発、怒り、憎しみ、恨みの感情を出したりするのです。
それは心の中心に神ではなく、我が中心に座り、助言などに抵抗している姿であり現れなのです。

鼻や心が折れるとは自分自身が観念(降参し認める事)する事です。そうすれは早いのです。
悪あがきすればするほど苦しみや傷みや悩みが益々増えるだけなのです。
この事を神示では 「己の戦いが済んでおらぬ」と言っているのです。

例として繰り返しますが、
●不意に人から自分に対して何か指摘されたような時に無意識に一瞬でも心に「怒りやむかついた、腹が立った」などの思いや感情が湧き出た時。
これは、心に一瞬でも「腹を立てむかついた、危害を加えたい等」と思うと、既に霊界で「 怒る 」行為と 「人を殺めてしまう」 行為を霊界で既に起こった出来事であり、それがこの世で現実的に必ず行動としても現れるものであります。

また、現世では、心の思いの段階を経て、現実にこれら行動となり必ず現れる事になりますが、感情の思いの強さがエスカレートし過剰に現実に行動の違いとして現れるようにもなります。
それにより人に危害を加える度合いが「言葉だけの暴力、腕力等の暴力、人を殺める」のような違いに現れるのですが、根本は同じ感情、思考から生じているのです。

心で腹を立て、既に人に危害を加えようと思っているのに、我慢している行為は、心では全く悪いとも思わず(改心もしておらず)表向きの水際対策をしているようなものです。
しかし感情の度合いが増せば心の思いは決壊し、抱いた行動を実行するに至るのです。
その為に、根本的な根源の心に抱く思いを無くす事、修正する事なのです。

●何か不意な出来事があった時に、無意識に一瞬でも心に 「面倒、嫌だ、大変、疲れる、やりたくない」などの思いが沸き出た。

●無意識に一瞬でも心に 「嫉妬心、執着心、自己愛(褒められたい、認めて欲しいなどの承認欲求、自己顕示欲、プライド心、驕り)」などが沸き出た。

さらに、人との対話や名前を呼ぶ時などに、心の中で瞬間的に年齢、身分(地位(社長、社員、同僚など)、名誉、風貌など)を無意識で判別し差別して呼び方を変えて対応しているものです。
これは、地位や権力のある人に対しては、瞬間的に意識の心が働き、注意するので丁寧で無礼のないように接するという事を注意しているはずです。
しかし、人を見下したり、どうでも良い人に対しては、威圧的に威張ったり、怠慢で粗暴な対応になっている事が多いかと思います。(これは無意識で自覚がない場合が多いのです)

このように他者の顔色を伺い対応を変える事は、必ずしも悪い事ではないが、余り良くはないのです。
また、心にも思っていないのに、相手に優しく丁寧に等は、自身の心に偽り取繕っている事なのです。
これが偽善なのです

このような思いや感情が一瞬でも沸き出た事を修正し無くす為に、心を掘り下げ追求し見て行く事をするのです。
それでなければ根本的な改心とはならないのです。

自らの奥底の「真の心の思いや考え方(思考)、感情」がその人の「本質や気質」であります。
また、さらに奥にある大いなる神の意志(直霊)と「奥底の真の自分の心」と行動を一致する事(内外一致)、これが和合であり誠の霊主対従なのです。
この自身の奥底の本当の心の本質や気質が正しく健全に変わる事を「改心」と言うのです。

私はこの世での(欲、慢心、我、外分)を剥ぎ取る奪衣婆であり、これらを火で焼き払い消失させる不動明王であり、真実を気が付かせて、鼻を折り、心を折り、正しく立替える事が役目なのであります。

神示では
(74)一聞いたら十知る人でないと、この御用つとまらんぞ、うらおもて、よく気つけよ
(173)一いへば十知る臣民でないと、まことの御用はつとまらんぞ

このようにありますが、
12月30日の「慢心と謙虚」でお知らせした内容により、心の現れを逆算されれば心の動きや修正方法が分かった筈です。
この段階で「十中の八」をお知らせしたのですが、今回は「 十 中 の九.五 」なのです。
この奥底の心の修正や無くす為にどうしたら良いのか? などの残り「0.5」を残します。
各々皆々で、よくよくお考え下さい。

これらは真の心の気が付き方と修正(改心)の手引書のようなものなのです。
また、先日お知らせしました 「感謝について」 が改心と関係ないと思われている方は大きな間違いなのです。
全てが心を改める為の手引書なのです。

厳瑞


いいなと思ったら応援しよう!