エリートということ

学部から数えて東大に18年在学している、現在博士課程在籍の高原智史と申します。

Twitter(いまやX?)に、研究か酒場か、あるいはそれらの入り混じった連ツイ(最大26連)を投下してばかりいるこの頃ですが、このたび note を始めました。

noteの最初の記事は、どういうことを書こうかと考えるに、やはりこれしかない。「エリート」。最初に書きましたように、東大に入ったはいいけど、ずっと出られないでいる僕なんぞは、エリート志願者の成れの果てでしかないわけですが、しかしだからこそ言えること、言わなければならないことがあると思っています(そもそもエリートになろうともしなかった人には言えないことが、いままさにエリートである人はそうであるがゆえに言えないことがある)。

以下はもともと、僕が8年かけて東大法学部を三回、全コースを卒業した上で、大学院修士課程に入った2014年、「新・学問のすゝめー東大教授たちの近代」というテーマ講義のある回への感想としてFBに書いたものです。FBらしく顔見知り向けに書いたところは加除修正して、一般公開向けに書き直しています。
(この講義は後に、『東大という思想』(東京大学出版会、2020年)として書籍化されました。 https://www.utp.or.jp/book/b510438.html

この回は、「教養教育」がテーマとなっておりました。

そこで一人の学生が、おそらくは大学に入りたての一年生だったでしょうが、

自分は「教養教育」というものについて常々考えているのだけど、ややもすればそれは「エリート教育」ということになってしまいそうで・・・

ということを話すと、この回の担当の先生は、

「エリート教育」で何がいけないんですか?「エリート」たる能力と志のある人に、それにふさわしい教育を施すことになんの問題があるのですか。

と発し、

だいたい、日本全国どこの大学でもおんなじ「教養教育」をやるというのは異常。どういう学生が集まっているのか、卒業後はどういうところへ行く人たちなのかということを考慮に入れながら、各大学がそれぞれ何をやるかを考えるべき。

「教養教育」というのは、つまり「パンキョー」でしょ?とか、どうせ古典読むんでしょ?ギリシア語とか?(笑)みたいなイメージがつきまとうから、この名称は廃止して、「共通教育」としたい。

とされた。

質問をした学生の発言にも見られるように、

「東大生」の一部には、「エリート」であること(そう見られること)に気後れを感じている人がかなりいるように思われる。

「エリート」というのには、鼻持ちならない感じ、インテリ臭さといったような「臭い」がつきものではあって、それを嗅ぎ取られるのを嫌って、自分は「普通」であると思われたい(しかし実際、東大生というのも、九割方、「フツー」の人間です)という気分はまあ分からないでもない。それで、「一応東大です」という決まり文句を言うことになる。

しかしまあ「昔は違った」のでしょう。

学部二年のときにゼミに出ていた御厨貴先生の最終講義シリーズが本になったものによると(御厨貴『知の格闘』ちくま新書、2014年)、かの後藤田正晴氏(警察庁長官、内閣官房長官)や矢口洪一氏(最高裁判所長官)、富田朝彦氏(宮内庁長官)らについて書いているところで、

「「エリートは我々である。エリートにはその使命と責任がある」と言い切ることができる官僚たち」という書き方をされていて、この、「エリートは我々である。」というフレーズにはなんとも言えない「感じ」を覚えた。

「我々はエリートである。」では、なんてことはない、高慢さ、鼻持ちならなさしか感じさせない、イヤなフレーズだが、主語述語が入れ替わって、「エリートは我々である。」になると、そこになんとも名状しがたい矜持が感じられる。

「学歴貴族」(竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』)たる僕ら「東大生」は、「世間」から、羨望のまなざしを受ける一方、「それゆえに嫌われる」こともまた常であります。

しかし、「嫌われる勇気を持て」とかいうことをどっかの作詞家だかプロデューサーだかも言っていましたが、それに耐える「タフさ」(※この頃東大総長であった濱田純一氏は、盛んに「タフでグローバル」と唱え、「タフグロ」と茶化されてもいた)はやはり必要でしょう。それを枉げて「一応東大です」などと言っている「ヤワ」ではいけない。

などと、FBに書いたところ、同年に大学院に入った法学部の後輩(いまは某国立大学で准教授をしているよう)から、

「我々はエリートである」という言明は、換言すれば「「我々(W)」という集合が「エリート(E)」という集合の一部である(W⊆E)」ということを指し、「エリートは我々である」という言明は、換言すれば「「エリート」という集合が「我々」という集合の一部である(E⊆W)」(この文脈では恐らく、「一部」(EがWの真部分集合:E⊂W)ではなく「等価」(EがWに等しい:E=W)であることを指しているのでしょうから、その意味で「我々がエリートである(W=E)」という言明と意味がほぼ等しいですね)ということを指していると思います。
前者は、「エリート」というある引照基準を「我々」が満たしていることを指しているため、外的に定められた枠にはまろうとする、どこか(いわゆる「点数稼ぎが巧い」)「優等生」めいたにおいがするのに対し、後者は「我々」が「エリート」という集合の引照基準にならんとする、つまり「エリート」という評価基準自体を「我々」が作るのだ、という矜持が感じられます。以上のように、2つの言い回しは、含意が大きく異なるでしょう。

というコメントが付きました。我が意を得たり、とはまさにこういうことを言うんだなと、いまでも思います。

「エリートは我々である」、「エリート」という評価基準自体を「我々」が作るのだという気概は、上で書いたところの「タフ」なあり方だろうし、そういえば申し遅れましたが、僕はいま戦前の第一高等学校(いまでは東京大学教養学部に当たり、今回の話題の講義はそこでなされた)について研究しておりまして、いまどきの東大生とはケタ違いの(まさに人数が桁一つ少ない)エリートである一高生に、こうした矜持を見て取りたくなるわけであります。

それで、昨年、2022年3月に大学のプロジェクトで、一高をテーマとした映画をつくりました。
https://www.eaa.c.u-tokyo.ac.jp/projects/first-high-school-materials-archive/rojo-trailer/

この映画は、かつての旧制一高を研究する現在の東大院生が主人公という体で、言うなれば僕がモデルなわけですが、この制作過程でも、「エリートは我々である」と「我々はエリートである」の違いということは何度も何度も話題にしました。そういう僕のこだわりが、映画にどこまで反映しているかはまた別の問題なのではありますが。

というところで、そろそろ終わらせにかかると、僕自身は正直、エリート志願者の成れの果てでしかないですから、自らをエリートに仕立て上げ、さらには、エリートの引照規準にまで自らを高めるなんてことは、望むべくもないわけですが、しかし、こういうことを言い続けて、エリートであることに気後れする空気を遠ざけ、エリートであることの裾野を広げて、本当に優れたエリートたる人に出てきてもらうことに期待したいと思っています。

などとエリート、エリート言ってきましたが、今のところの僕は、研究はしつつも、地元のBarで飲んだくれながら、場をつくることが大事だ!とか御託を垂れて、自分の店だか事務所だかを、実地に設けたいななどと、いまのところは絵空事を述べ立てているだけであります。

冒頭、研究か酒場か、あるいはそれらの入り混じった話ばかりしていると書きました。このあいだ、Twitterに26連ツイで、「ギルドとしての大学とBar」とかいう話を書きました。
noteを始めて、さしあたりはこの話題を深化させるのが目標であります。
ギルドの反対は、営業の自由でありましょう。
今度、地元小岩にある、WunderBarArs(https://twitter.com/WunderBarArs)というBar で、酒税についてレクチャーをしようと計画されています。酒類の製造販売への免許制と営業の自由(職業選択の自由)も話題になるでしょうし、営業の自由ということでは、コロナ禍における飲食店の営業や酒類提供の「自粛」政策も話にできるでしょうし、風営(適)法と酒場の話にも持ち込めるでしょう。
大学はともかく(むしろそちらが本拠のはずですが)、そういう話を統合した、「ギルドとしてのBar」論を完成させるのが、このnoteのさしあたりの目標です。

よろしければ、よろしくお付き合いください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?