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僕の「妄想ごっこ」が「デザイン」になるまで

1978年、名古屋。商売人の家に生まれて

僕の実家があるのは愛知県名古屋市の熱田区。村瀬家にとっては3人の兄弟の長男として生まれました。実家は代々、商売人の家系です。僕も含めて7代は商売人なんです。家系図に記されている初代のご先祖様、村瀬喜左衛門は鮮魚など水産物の仲買人だったようです。

名古屋市の熱田区にある熱田神宮は、伊勢神宮と明治神宮に並ぶ三大神宮のひとつに数えられています。村瀬家の実家があるのは、その熱田神宮の門前から開かれた町を母体としている「宮宿」という東海道で最大の宿場なんですね。船を持っていた喜左衛門の先祖が海運業を始めてから、家業はやがて江戸時代から明治時代にかけて鮮魚仲買になり、徐々に水産加工業に商売替。そのタイミングで3代目又三郎が始めたのが、かまぼこ屋でした。

一方で、僕の祖父は戦後、紡績機械の部品を作る村瀬製作所を設立しました。つまり、僕の父からすると、おじいちゃんはかまぼこ屋、お父さんは機械部品メーカーを営んでいるという図式でした。ちなみに僕が代表取締役を務めるnanilani(ナニラニ)は、この村瀬製作所が前身になっているんです。

村瀬製作所は祖父一代で従業員100人規模の会社に発展したのですが、オイルショックの影響などを受けて事業整理し休眠会社になりました。父は村瀬製作所を継ぐつもりだったようです。けれど、そういった事情もあり、かまぼこ屋を守るために継ぐことに。僕ら子どもたちは、かまぼこ屋の事務所で遊んだり従業員のみなさんとキャッチボールをして遊んでもらっていました。

小学生のころから父と2人きりになると「おまえは商売人の家の長男だから、いつか自分で事業をやったほうがいい」と言われていて。

「かまぼこ屋を大きくするのは状況的にも難しいから、おまえは継がずに自分の商売をやりなさい」と。

その言葉は潜在意識としてずっと僕の中にあったし、いつか自分は起業するものだと当然のように思っていました。僕が社会人になって3年ほどたったある日、父が営んでいたかまぼこ屋は主要取引先の倒産などに伴い十数年前に事業整理し廃業することに。父はかまぼこ屋としては4代目、創業100年を目の前にした時でした。父はとても残念だったと思うし、もし僕がデザイナーになっていなくて、家業に入っていたらまた状況は変わっていたかもしれない。しかし僕は家業を引き継ぐのではなく、自分で新しい商売をする道を選びました。

デザインの原点は”ごっこ遊び”

僕自身はグラフィックデザイナーとしてキャリアをスタートしました。そして、現在もnanilaniの事業における核にあるのはデザインです。
僕は幼少期からとにかく妄想することと、絵を描くことが大好きでした。「週刊少年ジャンプ」の黄金期世代ということもあり、小学生のころから漫画を描いていました。言うまでもなく「ドラゴンボール」の大ファンだった僕は『鳥山明のヘタッピマンガ研究所』というコミックを読みながら、母に頼みこんで買ってもらったGペンを使って漫画を見様見真似で描いたりして。あのころは本当に漫画家を夢見ていたんです。あとは、プラモデルも大好きでしたし、ミニ四駆をカスタムして大会に出たりもしましたね。そうやって細く手を動かしたり機械に触るのが大好きで、家のテレビやビデオデッキの配線なんかも小学生の僕がやってましたね。だから、パソコンに興味を覚えるのもかなり早かったと思います。

僕がまだ小学校4、5年のころ──もちろん1980年代当時、パソコンはまだまだ普及していなかった時代ですが──父がかまぼこ屋で取引していたスーパーが受注作業にあたりパソコンを導入したということで、ウチの事務所にもパソコンがやってきたんです。当時はあまりに高価な代物だったので、父は嘆いていましたけど。僕はそのパソコンを触らせてもらっていたんです。『ドラゴンクエストへの道』という『ドラクエ』の誕生秘話が描かれた漫画にハマっていた僕は、自然とゲームプログラミングへの興味が一気に高まって。そのころから将来はパソコンを使う仕事がしたいなと漠然と思うようになっていました。

僕は中学受験をしたのですが、受験勉強でも参考書や地図帳に載っている降水量のグラフがデザイン的にそろっていないのが気持ち悪くて、パソコンで自作のグラフを作ったりして活用していました。極めつけは受験本番と同じ環境でオリジナルの模擬試験をするために、自分で各教科の見た目や書体をワープロで再現して、プリントして切り貼りしてコピーして。自作のまるで本番試験と同じデザインの過去問を作ってたんです。今思えば初めてのエディトリアルデザイン。あとは、ファミコンのカセットを友だちと貸し借りする際の会員証をデザインして作ったり。そうやって僕がデザイナーを志す原体験として、漫画やプラモデル、パソコンは大きな影響を与えてくれましたね。

要は、僕にとってのデザインって”ごっこ遊び”なんです。今もそういう感覚があって。
たとえば今はとある食品メーカーのパッケージデザインに取り組んでいるのですが、それも「こんなパッケージだったら可愛いんじゃないかな?港区のマダムたちは喜ぶんじゃないかな?」という妄想からデザインのアイデアが膨らんでいくんですね。当然、そこにはコンセプトや戦略も付帯しますが、源泉にあるのは”ごっこ遊び”なのは間違いないです。

青春と、Macと、就職と

デザインに対する興味がグッと近づいていったのは高校2年生の時。パチンコをやっていた先輩が、景品として獲ったピチカート・ファイヴのアルバム『ボサ・ノヴァ2001』を「俺にはよくわからないからあげるよ」と譲ってくれたんです。そのアルバムを聴いた時に「なんだこのオシャレな音楽は!?」という衝撃が走って。ジャケットもまたオシャレなんですよ。それまでは流行ってるJ-POPを主に聴いていたのですが、ピチカート・ファイヴには自分が聴いてきた音楽とまったく違う洗練された魅力がありました。それが、いわゆる渋谷系との出会いでした。そこから一気に渋谷系に興味を覚えて、小沢健二と小山田圭吾のフリッパーズ・ギターというユニットがいるんだ、信藤三雄さんというデザイナーが渋谷系のアルバムジャケットのアートワークを手がけているんだと、いろんなことを知ったんです。ずっとCDジャケットってカメラマンが作っているものだと思っていましたから。世の中にアートディレクターという仕事があることをその時に知りましたし、同時にコム・デ・ギャルソンやヨウジヤマモトなどドメスティックのデザイナーズブランドにもハマっていって。

そして、青山学院大学に進学するタイミングで上京。学部は経済学部でした。親から自動車運転免許を取るための予算20万円を使ってMacを買っちゃったんです。Macintosh Performa 5430というディスプレイ一体型。後のiMacの原型にあたるようなモデルです。そこからグラフィックデザインを独学で習得していきました。大学ではカルチャーが好きなやつらが集まるサークルを作って。Macを駆使して、フリーペーパー、今で言うZINEを作ったり、自分でフライヤーを作りたいという理由でDJイベントを企画したりしました。イベントではTシャツや缶バッジを自作して販売したり。自分で言うのはおこがましいですが、それらのデザインは渋谷系のデザインをサンプリングしつつかなり完成度が高かったと思います。僕のデザインは仲間内の間で評判が評判を呼んでいきました。

大学3、4年生のころにかけてカルチャーに造形の深い年上のクリエイターたちと出会って。その人たちはデザインユニットとして企業のウェブサイトや映像を作っていたんですよ。それで、下北沢の先輩の家に毎日のように転がり込んで、彼らの仕事を手伝うようになったんです。だんだん僕にも単発で仕事がくるようになって。就職活動もまともにしていなかったので、大学最後の夏休みを丸々使って、とあるアーティストのホームページ制作を手がけました。その仕事のギャラで数十万円を得る予定だったので大学卒業後もこの流れのままフリーランスのデザイナーとして食べていこうと考えていたのです。でも、クライアントであるアーティストのプロダクションが倒産してしまって。結局、数万円の報酬しか得られなかった。世の中は甘くないな、もっと社会勉強と修行するべきだなと痛感しました。

そんななか、当時愛読していた様々なカルチャーを網羅するヴィジュアルマガジン「+81」(プラスエイティワン)を読んでいたらアシスタントデザイナーを募集していたんです。そして、僕はD.D.WAVEにアルバイトとして入社しました──。


デザイナーとして、社長として

デザイナーが生業に

D.D.WAVEに入社後、もちろん僕としては愛読していた「+81」のデザインを担当したかったのですが、新人の僕にやらせてもらえるはずもなく。最初に担当したのはカラオケボックスで選曲する際にお客さんが手に取る“歌本”でした。歌本の巻頭には2、30のカラーページがあるのですが、アーティストの特集ページや気分やシーンで選曲するための特集ページのデザインを担当させていただいていました。

あのころは会社に泊まり込む日々を送って、週に1、2回しか自宅に帰らない時期もあったり、大変でしたが修行だと思って自らそのような生活を送っていましたね。そのうち、目標としていた「+81」のデザインも担当させていただけるようになりました。それは若いデザイナーにとっては夢の様な毎日でしたが、一方で自分のアーティスティックなクリエイティビティの限界も感じ始めていました。もっと自分が活躍できる領域があるのではないかと思い一度リセットしたいという思いと、少し疲れてしまったのもありゆっくりしたいなと、会社を辞めようと思ったんです。
そんな時にD.D.WAVEの同僚で、編集者として「+81」を手がけていた田頭倫子から「私もフリーランスになるから一緒にオフィスを借りない?」という提案をもらったんです。そう、それがnanilani設立前夜にあたります。

D.D.WAVE退社後、早速、田頭の友人からの紹介でとある大手ポータルサイトの企画キャンペーンサイトを手がけることになったんです。ただし、クライアントが大手企業のため当時はフリーランスとして個人契約ができませんでした。そして、長年漠然と考えていた起業をするならこのタイミングかなと決意し、僕が代表取締役となり田頭とnanilaniを設立。表参道の同潤会アパートの裏にあった古いマンションを利用したレンタルオフィスの一室をオフィスとして借りました。
今でこそ一気通貫でコンテンツ制作を手がけるクリエイティブプロダクションは星の数多く存在しますが、当時はウェブ制作会社とデザイン会社もセパレートされていましたし、もっと言えば企画、編集、コピーライティング、撮影までまるっと受注しディレクションできる小規模の会社は多くなかったんですね。僕らが20代半ばだったという意味ではもっと珍しかったと思います。
僕と田頭は、クリエイティブプロダクション・スタジオとして仕事を重ねていきました。僕らが丁寧に一つひとつの仕事を手がけていったのと、若手ということもありギャランティが比較的リーズナブルだった?ので順調に仕事のオファーが舞い込んできました。

27歳、nanilani設立。何色にも染まれる空のように

2005年。その時、僕は27歳。今でこそスタートアップなどで若い経営者は多いですが、同世代で、しかも僕のように独学でキャリアを積んだ先にクリエイティブを総合的に手がけるデザイン会社を立ち上げる人間はまだ稀有だったと思います。

nanilani(ナニラニ)は、ハワイ語で“美しい空”を意味します。そこには、僕らがクライアントと向き合ううえで「あえて自分たちの作家性は持たず、プロジェクトごとに何色にも染まろう」という想いを込めています。あとは、空を嫌いな人ってあまりいないですよね。そういう意味でも多くの人に愛される会社であり、デザインであり、プロダクトを作っていきたい。そんな想いも社名に込めています。

何度も言うように、僕は独学でデザイン能力を培いましたし、デザイナーとしは本流のキャリアを積んでいない。だからこそ、どこかでずっとインディーズ精神を持ってはいける。けれど、少しずつ社員が増えていくなかでnanilaniを亜流な会社にはしたくはなかったんです。
デザイン業界ではエリートでも本流でもない僕らの強みは何だろう。自分自身を見つめ直してみた時に、「商売人の息子だしもっと経営にコミットしたい」「デザイナーにしては数字や数学も好き」「コミュニケーション力も割とある方」そんなキーワード(勘違いも含めた)とデザイン力を掛け合わせて会社を発展させnanilaniの存在意義を確立したいと思うようになっていきました。

JINSとのめぐりあい

2006年にオフィスを渋谷区宇田川町のマンションに、2007年には自ら内装もディレクションし建築家に設計してもらった代官山に移転。築古の雑居ビルでしたがインテリアも好きなようにデザインして大変居心地が良く、会社としても飛躍した拠点でした。nanilaniにとって大きかったのは、翌2008年のJINSとの出会いでした。ある日、田頭が原宿で面白いメガネ屋さんのレセプションパーティーがあるからと誘われて、JINSの旗艦店であった明治通りの原宿店に遊びに行ったんです。
当時のブランド名は「JIN's GLOBAL STANDARD」。店舗デザインやアートディレクションを務めていたのは、僕らにとっては上の世代のスタークリエイターたちでした。
とてもエッジーなスタイリングブックとメガネを手土産にレセプションパーティーから帰社した田頭が「すごくクリエイティブなメガネ屋さんだった!」と興奮気味に語っていたことをはっきりと憶えてます。

それから少し時間が経ってJIN's GLOBAL STANDARDの雑誌広告の制作オファーがnanilaniにきたんです。なぜnanilaniにオファーがきたかというと、撮影から入稿までのスケジュールが驚くほどタイトだったんですね。1週間後が入稿日でした。とにかく時間のない案件だった。けれど、僕は「やります」と即決しました。大急ぎでモデルのキャスティングオーディションを組み、カメラマンとスタイリスト、ヘアメイクを手配し、撮影に臨みました。

結果的にその仕事のスピード感とクオリティが役員陣にも高く評価され、創業者で代表取締役CEOの田中仁さんともその時に初めてご挨拶させていただきました。
田中社長は本当に気さくな方で、「現場のメンバーと同じ目線に立って協力してもらえないか?」というお話をいただき、以降、店舗のPOPデザインやチラシなども依頼されるようになりました。やがて田中社長から頻繁にランチミーティングやコーヒーチャットをお誘いいただくようになり、週に1回行われるマーケティング会議にも参加することに。意外にも当時のJINSは業績が芳しくなかったので、僕のようなフットワークの軽いクリエイターを起用することで会社に新しい風を入れたかったのかもしれません。

そして、2009年。田中社長は「村瀬さんには常にお客様目線でうちの会社を見てほしい」とよく仰っていました。これは今でも仕事をする上で大切にしている言葉です。様々なキャンペーンや施策のお手伝いをしていた中、田中社長が目指すブランドのあるべき姿と当時のブランドイメージにギャップを感じていました。そんな考えとアイデアを、いつものように表参道のカフェでお茶をしている時に、頼まれてもいないのにブランドイメージのリブランディングのご提案をさせていただきました。それを気に入っていただけて、さすがの決断力とスピード感で、ブランドイメージのリニューアルをご決断されました。
田中社長の目標はJINSをユニクロのようなグローバル企業に成長させることでした。実際、田中社長は2008年にファーストリテイリングの柳井正会長と面会した時に「志のない会社は継続的に成長できない」という言葉に接し、会社というのは明確なビジョンがなければ成長できないのだと痛感したそうです。その後、ビジョンをもとに戦略を定め、業態を改め、新しい商品を開発している最中でした。

「メガネ業界の常識を破り、イノベーションをおこし、ユニクロのように老若男女に愛されるブランドになりたい。日本を代表するメガネブランドとなり世界市場に挑戦したい」という田中社長の想いと、社運を賭けて打って出る施策である“どんな度数でもレンズの追加料金0円”という「NEWオールインワンプライス」の計画、最高のかけご心地を実現する超軽量フレーム「Air frame」の構想をお聞きし、世界にイノベーションと驚きを発信し続けるブランドの意志を「J!NS」という新ロゴに込めデザインしました。
そうして、リブランディングプロジェクトのクリエイティブディレクターを担当させていただくことに。アートディレクションはもちろん、店舗デザインなどのディレクションも手がけさせていただきました。

JINSがメガネ業界のユニクロを目指すのであれば、アートディレクションや店舗デザインもしっかり参考にしようと思いました。それも独自性や作家性を売りにしているデザイナーにはない発想かもしれません。けれど、僕やnanilaniのコンセプトと強みは「クライアントや案件ごとに何色にも染まれる」ということ。
田中社長はじめ経営陣、社員や店舗のスタッフの方々、フレームやレンズ工場、広告代理店や数多くの協力者の力が合わさり、リブランディングは大成功を収め、その後の急成長の第一歩を踏み出すことができました。
JINSとの仕事を通して、ベンチャー企業の急成長、海外展開のダイナミズムも経験し、海外のトップブランディングエージェンシーとの協業によりメソッドなども間近で学ぶことができたのも素晴らしい経験でした。
JINSとのプロジェクトは僕自身とnanilaniのクリエイティビティを大きく成長させてくれたんです──。


和菓子界のアップルを目指す

和む菓子「なか又」のこと

JINSの田中社長は群馬県前橋市出身。田中社長は2014年に田中仁財団を設立しました。僕は田中社長とのご縁から財団の活動のデザインも担当することに。
この財団は、田中社長が地元に恩返ししたいという思いから、前橋市をはじめとする群馬県の魅力ある都市形成と豊かな地域社会実現のため、文化・芸術の振興、起業支援等の地域活性化を目的に設立されたんですね。
財団の取り組みのひとつに「群馬イノベーションアワード(GIA)」というビジネスアワードがあります。「GIA」は財団の設立以来毎年開催されていて、受賞者特典としてアメリカのシリコンバレーやドイツのベルリン、中国の上海などへの海外研修ツアーに参加できます。僕も同行したことがあり、Apple、Microsoft、Google、facebook、Twitter、Uberの本社、Stanford大学などを訪問しました。

2015年ごろ、そういった流れのなかで田中社長から「村瀬さんも前橋で何かしてみない?」という提案を受けました。
その時ちょうど僕が考えていたのが、インターネットの普及や社会インフラのデジタル化が急速に進み、これからAIもどんどん進化するという話があるなかで、それはつまり人々のライフスタイルが劇的に変化するということじゃないですか。

nanilaniはずっとデザインを通してブランディング事業に取り組んできたけれど、自分のバックグラウンドやアイデンティティを考えた時に今よりもっと、しっかり商売に寄り添ったクリエイティブを提供できるようになりたいと考えていました。
僕の代で実家の家業を閉じてしまったという負い目もどこかにありました。
新しい商売──僕にとって宿題でもあった“食”の商売を東京でやるのはハイリスクだけれど、前橋から始めるのは現実的だなと思ったんです。財団の出張で前橋に行った時に地元のアイコンになるようなお土産が少ないのも気になっていました。

そこで思い立ったのが和菓子でした。今ではちょっと笑い話ですが、シリコンバレーの視察などでテンションが上がっていたこともあり「和菓子業界にイノベーションを起こそう!」「和菓子業界のAppleを目指そう!」と意気込んでいたんです(笑)。
さらに、たまたま地元・名古屋の同級生に400年続いている和菓子屋の血を引き継ぐ息子がいて。彼に相談したら「面白いじゃん!」と乗ってくれて。
でも、普通の和菓子じゃつまらない。当時、JINSを通して学んだイノベーションやビジネスメソッドの影響もありましたし、H&Mもそうですが、コレクションブランドが作るトレンドを瞬時に取り入れるファストファッションが小売業のなかで最先端のビジネスモデルだなと思ったんです。

“色っぽい和菓子”が起こしたバズ

そこでまず考えたのが、どら焼きをひとつのプラットフォームにすることでした。
どら焼きの中に、そのときどきの流行りの具材を挟んでいく。たとえば、生クリーム。たとえば、モンブラン。たとえば、ティラミス。
2018年8月、群馬県前橋市の中央通り商店街に「なか又」をオープンしました。いざオープンしてみると、アイコニックな商品を定着させるには、どら焼きというプラットフォーム自体を進化させる必要があることに行き着いたんです。

当時、パンケーキブームもあって、いろんなお店のパンケーキを食べ歩き研究を重ねていった。その結果、“ふわふわな生地のどら焼き”に行き着いたんです。今では、なか又の絶対的な看板商品である「ふわふわ わぬき」が完成しました。
さらに新型コロナウイルスのパンデミックが起こる直前の、2020年の年明け。なか又のTikTokアカウントで、わらび餅を作る動画がバズったんです。
その理由は下ネタに通じるものなので詳細は避けますが、でも、まじめな話として、和菓子と色気は愛称がいいなと思ったんです。
そして、SNSを毎日投稿し「ふわふわ わぬき」を色っぽく見せることで大きくバズったんです。2020年6月のTwitterのポストが、その日のリツイートランキング1位を獲得したりして。店にも、僕の携帯電話にも問い合わせが殺到しました。
そのタイミングでオンラインストアも構築。2022年10月には伊勢丹新宿本店本館地下1階の和菓子エリアに都内初の常設店舗をオープンしました。

僕とnanilaniの、これから

僕のデザイナーとしての夢は、世界中に自分がデザインしたブランドが存在していること。JINSとの仕事を通して、サンフランシスコで自分が作ったロゴ=「J!NS」を見た時にその夢が少し叶ったと感動しました。夢に大きく近づく機会をいただいたJINSには心から感謝しています。
航空会社のブランドをデザインするのも大きな夢です。航空機は世界中を飛び回り、各地の空港にそのロゴが存在することになります。これからの時代的には宇宙船かもしれません。

そして、これは小さいころからの“妄想ごっこ”に最終的に繋がってくるのですが、デザインとはつまり、“未来を想像して描くこと”だと思うんです。“ビジョンの具現化”です。
ビジネスでも市井でも世の中には想像力が足りないと思うことがとても多い。世の中に起こる事件の一つひとつもそうですし、これをやったら誰が何を感じるのか、こういうことを言ったら誰がどのように傷つくのか、その想像力が足りてないとますます思う時代になりました。
企業でたとえるなら、いい商品は作れるけれど、お客様は本当は何を求めているのか。その一歩先の想像力が働いていないがゆえに商品のポテンシャルを活かしきれてないことも多いように感じます。
想像力を活かすこと。デザインにしても、ブランディングやコンサルティングにしても、僕の得意分野はそこだと自負しています。だからこそ、その想像力をnanilaniの事業におおいに活用したいと考えています。
お客様の規模の大小は関係なく、それが僕のライフワークになっていくと思いますね。いいアイデアは思いつくんだけど、形にできないという悩みもぜひご相談いただけたら、と思います。
あとは、これは前橋で学んだことでもあるのですが、地方にもたくさんの企業や生活や文化があるなかで、東京にいながら、もっといろんな地域のクライアントと仕事をしていきたいと考えています。
現状、なぜデザイン会社が東京に集中しているかと言ったら、シンプルにクライアントが東京に集中しているからで。
でも、視野を広げたらもっとnanilaniの力を寄与できるクライアントはいっぱいあると思うんです。
これからも、たくさんの素晴らしい出会いを求めながら、クライアントの色に染まりながら、nanilaniを成長させていきたいです。

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