失策行為、言い間違えの心理:フロイト的失言
私がまだ小学校低学年の頃、精神科医であった父が、 時々好んでする話がありました。父は面白そうに言ったものです。
「ある人が、誰かのお葬式に行くとするよね。 それで、遺族の人と会って、『ご愁傷様です』と言うつもりが、『おめでとうございます』と言ってしまう。 なんでだろう」
たぶん不思議そうな顔をしていた私に、満足気に彼は続けました。
「それはね、『おめでとう』と言った人の心の中に、 その人が死んでよかった、っていう気持ちがあるからなんだ。その人は、自分の気持ちに気付いてないし、『そんなこと絶対ない』と言う。本当にその人の死を悲しんでる。でもね、こころのどこかで、『必ず』、 その人には、『死んでよかった』という気持ちがあるんだよ」
もちろん、小学校低学年の私にそんな話は信じられず、「そんなわけないじゃん」というような反応をしていた気がするのですが、なんだか印象的な話だったので、覚えています(それにしても、10歳にも満たない子供にそういう話をしていた父が今思うと不思議です) 。
それが、フロイトの、無意識の世界の話であり、父は「フロイト的失言」(Freudian slip)について話していたのだと 知ったのは、ずっと後になってからのことでした。
「フロイト的失言」とは、よくある言い間違いを言いますが、言い間違いによって私たちは思わずその本心や、無意識の願望などを表現してしまっているのです。これは、我々の「無意識」の 構造と関係しています。
人間には、様々な欲求や願望があるわけだけれど、その多くは、実際に意識したくないことだったり、 意識することが不快であったり、自己イメージやその人の道徳感と相反するものであったり、あまりにも心にとって脅威であったり、 意識してしまう事で様々な不都合が生じたりします。たとえば大親友の恋人を心の奥底では好きだったり、命の恩人に実は強い怒りを持っていたり。
そういう種類の 思いは、意識の隅へと抑制(Supression)されたり、無意識の世界へと、抑圧(Repression) されます。
意識できない事で、心の平安や心の平衡状態が保たれるからです。
しかし、抑圧された感情や思いは、いつでも そのはけ口を捜していて、表現されることを望んでいます。
実際、抑圧された感情があまりに強かったり、 多かったりすると、人間は精神に支障を来たしたりします。 そういうわけで、直接意識できない感情も、なんらかの 形をとって、表現されることが必要なのです(脚注1)。「妥協形成」といいます。
いずれにしても、無意識に抑圧された思いは、 自分のこころにとって、より受け入れやすい 形をとって、間接的に、表現されます。
フロイト的失言とはつまり、無意識的な本心だけれど、ダイレクトに口に出す訳にはいかなかったり、そこに葛藤があったので、「言い間違え」と言う形をとって 表現されるという現象です。
これは、あなたも直感的に知っていることかもしれません。たとえば、新しい恋人同士のSexの最中に、 どちらかが、今している相手ではない、他のひとの名前を間違えて呼んでしまう事が、 この恋人達の関係においてどれだけ破壊的かに ついて考えてみると、理解しやすいかもしれません。「ごめん。ただ言い間違えただけだよ」では済まされませんね。
なぜ、それが二人の関係にダメージを与えるか。 それは、言い間違えた相手の頭の中に、別のひとの ことがあることを、我々は直感的に知っているからです。もちろん、いい間違えた本人にすら、どうして間違えたのか、心当たりないことは良くあります。
でも、 「全然想ってないのに言い間違えちゃった、なんでかな」と 言ったところで、無意識には何かあるわけです(もっと可愛い例で、小さな子供が、優しくしてくれる、ママの姉妹を、間違えて「ママ」と言ってしまうようなものもありますね。ところでこの場合は、葛藤ではなく、「優しい大人のひと」を無意識に「母親」と錯覚している可能性のほうが高いです)。
言い間違えまでいかなくても、人は、本心と違うことや、葛藤を抱いていることを言おうとすると、口ごもって しまったり、つっかえたり、どもってしまったりするので、 その人の心の中に何かあるのはわかります。
人間は、とても敏感な、社会的な生き物で、常に多かれ少なかれ相手に気を遣って生きています。それで、「こういったらこの人
傷つく」とか、「こういったら角が立つ」とかいった、 微妙な物事は、それが本心であっても、しばしば私たちは言及しないでいます。
しかし、そういう風に気を遣っていても、人間不完全なもので、いつかはこうした言い間違えなどで、表現されてしまうわけです。ここで、相手の無意識へと抑圧された感情や、 意識の隅へと抑制(Supression)された想いに対して、 攻撃したり、非難しても、それはあまり意味がありません。なぜならその人は、相手に気を遣っていたために言えなかったり、感じることさえできなかったことが考えられるからです。
そこで、必要以上に相手の本心について懐疑的にならないで、「ああ、なにか葛藤があるのかな」ぐらいの気持ちで、そういうものを可能性 として考慮に入れたうえで付き合っていくのがいいかもしれません。
相手の言い間違えに対して全く無頓着だったり、気付かなかったりするのは、相手の無意識のメッセージかもしれない大切な情報を
逃しているわけで、問題だけれど、言い間違えに過剰反応したり、過剰に解釈や訳を加えてみるのもまた考えものです。
それから私たちは、他者の「無意識に存在する何か」は感じたり、察したりできても、それが具体的に何なのかは、完全には分かりません。たとえば、先程の昔の恋人の名前を言い間違えて 呼ぶことにしても、その昔の相手が好きだから言い間違えたのかは、誰にも解りません。また、まだ付き合いは浅いけれど、そのかつての恋人と経験したレベルの親密さをあなたと経験していたから、その親密さと深くつながっていた昔の恋人の名前がでてきてしまった、とも考えられるわけです(脚注2)
それと、もう一つ大事なのは、言い間違えには、「フロイト的失言」以外の可能性もあるということで、 たとえば、似たような発音の言葉(トイレとトレイ、筆と腕。コップとモップ。うさぎとうなぎ・・・)とか、同一系統の物事や概念(塩と胡椒。フォークとスプーン。紙と鉛筆。)は、脳の言語野の、隣接したところに 記憶されているから、単純な、脳の検索ミス、ということも大いに有り得ることは、様々な研究で支持されていることです。
以上のことを踏まえたうえで、言い間違えの心理、「フロイト的失言」に ついて覚えておくと、却って人間関係がスムーズになることも少なくありません。
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脚注1) 原因不明の頭痛や、腹痛や、腰痛や、 発熱など、実際に身体的な問題として表現されたり することも多く、これはSomatizationと呼ばれる もので、抑圧された感情の身体化です。たとえば、心気症(Hypochondriasis)と呼ばれる病気は
これに関するものです。男性の、原因不明の勃起不全や、女性のオーガズムを感じられない問題なども、 こうした心理に基づくものが少なくありません。
脚注2) それから、付き合って間もない人が、その前の恋人のことがまだどこかでこころの中にあったとしても、それはとても自然なことです。あなたとの人間関係が深まることで、それは徐々に解消されていくことなので、気を楽にもって、察してあげるくらいがいいかもしれません。
(原文は2006年9月6日)