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どう生きるべきか

理学と工学とのちがいは、理学が世界の原理を追求する行為であっていかなる主観も許さないのに対し、工学はより良い社会の実現という明確な目的と主観性をもつ点だ。知的好奇心は理学にかたむき、志は工学を求める。この板挟みになって、研究テーマをどうしようかと延々と悩むのは、理系のつきものだ。経験も大事。理論も大事。実践も大事。
どれかが重要なのではなく、どれも重要である。

哲学的なあれこれ

哲学の思索は、大別すると
①どう生きるべきかを考える倫理の領域
②世界はどうあるべきかを考える領域
③それらのトレードオフを克服して接続を試みる領域
に分かれる。人によって哲学の体系はあまりに異なるが、哲学が自然科学を包含して世界の原理を追求した時代は終わっていて、よりよく生きたい/より良い社会を実現したいという明確な目的と主観性を備えたものだと、今の僕は捉えている。

ある人は、世界を構成するものをリソースとみなし、有意義な道具としての適材適所を考える。道具は道具連関の中ではたらく。逆に言えば、道具がはたらくということは、はたらく「ところを得ている」からだ。箸がうまく機能するのは、食卓の上においてである。

またある人は、「人格」という概念を打ちたてた。私たちは、人間を単なる手段としてではなく、つねに同時に目的として扱うべきだ。人の価値を、道具としての利用価値で測ってはならない。たしかに、自分とは、他人が生存する手段である。しかし人間の存在価値を議論するなら、あくまで尊厳をもった人格として扱うべきだ。

人間であるということは、とりもなおさず責任をもつことだ。

ぼくらは、生きている限り、必ず他者に何らかの影響を与える。多かれ少なかれ、あるいは良くも悪くも、自分の発言、行動、身振り手振りのひとつずつが、だれかに影響を及ぼす。ならば、自分の行動がどのような影響を与えるのか、どうすれば質の良い影響を与えられるか、といったことにもっと気を配るべきだ。現時点での自分に影響力があるかどうかにかかわらず、自分が人生の時間を使ってより良い社会を実現するかどうかは、ひとえに自分の責任である。

目標達成のために他者によい影響を与えることを、リーダーシップという。しかるに、リーダーシップとはなにか。オーケストラの指揮者だけでなく、奏者ひとりひとりがより良い音楽を目指して発揮するものである。あるフレーズを演奏するときのイメージを共有する。全体練習とはべつに木管のパートだけで合わせる時間を率先して提案する。困ったら助けを求め、別の誰かが支援する。

このオーケストラのアナロジーから、リーダーシップのいくつかの重要な性質が浮かび上がってくる。すなわち、リーダーシップを発揮するのはリーダーだけではないこと。リーダーシップはマネジメントではないこと。全員が気兼ねなくリーダーシップを発揮するには共有すべき価値観があること。

リーダーシップを発揮するのはリーダーだけではない

人がチームの中で影響力を行使するとき、6つの型があるといわれる。

①ビジョン型リーダーシップ
目標設定・共有によって、チームの目指すべきものを明らかにする。チームの皆がこれをできるようにするためには、「新参者がでしゃばるな」といった無為な反感を徹底的に排除し、すべての人のすべての発言に対して全員が敬意を払うことが重要だ。

②率先垂範型リーダーシップ
率先して他者の模範となるようなふるまいをする。率先して手を動かしたり、発言したり、アイデアを提案する。ただし、自分ですべてを抱え込むのはチームワークとは言えない。

③相互支援型リーダーシップ
お互いに支援し合うこと。つまり、困ったときに一人で抱え込まず、助けを求めること。そして、困っている人を率先して助けること。この前提となるのは強固な信頼関係である。ひとりひとりが感情と賢く付き合い、助けを求められる心理的安全性を確保することが必要である。

④民主主義型リーダーシップ
全員の意見や不満に耳を傾け、随時取り入れながら、意思決定する。ひとりで意思決定するときに比べて意思決定のスピードは鈍るが、集団維持に有効である。

⑤コーチ型リーダーシップ
チームのひとりひとりへのコーチングを通じて行動と学習を支援し、強い内発的動機づけを促す。ひとりひとりが義務感ではなく心からやりたいと思ってプロジェクトに参加するようになる、という効果が見込める。チームメンバーがコーチングを受けることを望んでいる場合には特に有効。

⑥強圧型リーダーシップ
チームメンバーに自分の言うことを聞かせる。カリスマ型リーダーである必要がある。たいていの場合、機能しない。ただし、組織が危機に陥ったときや、火事における消防隊のリーダーなど、経験豊富な一人がすべてを管理するときには有効。

平時のリーダーシップは①~⑤、有事のリーダーシップは①~⑥をうまく使いこなすことが重要である。
どれかが重要なのではなく、どれも重要である。

リーダーシップはマネジメントではない

変革型リーダーシップ論において、ジョン・コッターとノール・ティシーが共通して述べているのは、リーダーシップはマネジメントではないということだ。マネジメントは素晴らしい。しかし、しょせんは人が作った理論体系である。尊敬のまなざしや権力を盾に、人を管理して従わせるのは限界がある。

はじめから志の高い優秀な人を集めて、その人達を信頼してメンバーひとりひとりが心からやりたいと思うことをやった方が、目標達成機能も上がるし、長期的な満足度も向上するであろう。その際、メンバーのやりたいことは、利己的な自分のメリットだけではなく、チーム全体の資源配分や長期的な視野を考慮したものであることが求められる。

全員が気兼ねなくリーダーシップを発揮するには、共有すべき価値観がある

真面目にこつこつやるべきことをやるし、社会人的な常識は一通り持ってるんだろうけど、いざ全体を見渡すべき時に利己的すぎて議論にならない、というケースは往々にしてある。学生オーケストラでよくある話で喩えれば、「個人のやるべき事をきっちりこなして発言の資格を得る」みたいなくだらない思想を堅持してきた最高学年が、ほら自分の番だと言わんばかりに自分たちのやりたい超大曲を選んで、低学年には「負担軽減のため」と言って軽い曲ばかりを渡すようなものだ。利己的すぎるリーダーは滑稽である。

人にはそれぞれ得意不得意がある。自分の不得意や弱みもチームのメンバーには積極的に開示して、気兼ねなく頼りあえる関係を築くべきだ。完璧でなければ信頼されないなんてことは、決してあってはならない。率先垂範、目標設定・共有、相互支援といったリーダーシップの発揮を促進するうえでは、現在のコミットメント量や能力といった要素に関係なく人格を認めることが必要だ。

冒頭のカントについての議論を思い出そう。私たちは、人間を単なる手段としてではなく、つねに同時に目的として扱うべきだ。人の価値を、道具としての利用価値で測ってはならない。たしかに、自分とは、他人が生存する手段である。しかし人間の存在価値を議論するなら、あくまで尊厳をもった人格として扱うべきだ。

人間であるということは、とりもなおさず責任をもつことだ。

この言葉は、フランスの作家、サン=テグジュペリが「人間の土地」の「僚友」という章で述べた箴言である。石を積んでいるときの、世界の建設に加担しているという感覚。あるいは、ホテルの廊下を掃除しているときの、お客様の心地よいひとときに貢献しているという感覚。このように、自分の職務の範囲内で、多少とも人類の運命に責任を感ずることが、人間の人間たる美徳である。箱根の「星の王子さまミュージアム」でサン=テグジュペリがそう教えてくれた。

このような世界に対する責任観念は、どのような背景から生じうるのか。

反証可能性などかなぐり捨てて乱暴にまとめると、こうだ。独立自尊の精神を育む土台は自由闊達な環境にある。自由にふるまう中で、やってよいことと良くないことがだんだんわかってくる。「この世界は、自分の行動に応じた結果が与えられる」ということを悟り、この世界における自分のふるまいを自分で選択できるという自己効力感が芽生える。同時にこの世界の運命に対して責任観念が生じる。自分を大切にできてはじめて他人を本当の意味で大切にできるし、まして公益の精神はその先にあると、今の僕は思っている。

土木とは、澄み切った日本酒

しかるに土木とは何か。優しさで社会課題を見つけ出し、圧倒的な技術力でそれを解決に導くことだ。この極端な理想主義と現実主義のタッグが、土木思考の最大の強みだと思う。

土木という学問は、澄み切った日本酒のようだ。日本を代表する頭脳が集まって、いかに災害から人の命を守るか、これ以上災害で人を死なせてたまるか、どのような構造物や都市を作ればより良い社会が実現できるか、と日々白熱した議論を展開している。度が強すぎて、飲みすぎるとよく酔うこともある。世俗の楽してお金儲けしたいといった話とはあまりに遠い世界、それが土木である。土木という学問は、そうした純粋無垢で高邁な志が大きく根を張れる、栄養満点の土壌でもある。

将に将たる土木

すべての始まりは古市公威先生のこの演説である。ぼくにとってのバイブルであるため、多少長くなるが引用したい。土木学会を作ったときに、土木学会の初代会長として基本方針を会員に示した演説である。声に出して読むと、リズム感の良さも味わえるのでおすすめ。

 自分は極端なる専門分業には反対するものである、専門分業の文字に束縛されて萎縮してしまうことは、大いに戒めるべきことである。特に本会の方針について自分はこの説を主張する者である。
 本会の会員は技師である。技手ではない。将校である。兵卒ではない。すなわち指揮者である。故に第一に指揮者であることの素養がなくてはならない。そして工学所属の各学科を比較しまた各学科の相互の関係を考えるに、指揮者を指揮する人すなわち、いわゆる将に将たる人を必要とする場合は、土木において最も多いのである。土木は概して他の学科を利用する。故に土木の技師は他の専門の技師を使用する能力を有しなければならない。且つ又、土木は機械、電気、建築と密接な関係あるのみならず、その他の学科についても、例えば特種船舶のような用具において、あるいはセメント・鋼鉄のような用材において、絶えず相互に交渉することが必要である。ここにおいて「工学は一なり。工業家たる者はその全般について知識を有していなければならない」の宣言も全く無意味ではないと言うことが出来よう。そしてまた、このように論じてくれば、工学全体を網羅し、しかも土木専門の者が会員の過半数を占めたる工学会を以って、あたかも土木の専攻機関のようにみなし、そのままの姿で歳月を送ってきたのも幾分か許すべきところがあるだろう。
 故に本会の研究事項はこれを土木に限らず、工学全般に広めることが必要である。ただ本会が工学会と異なるところは、工学会の研究は各学科間において軽重がないが、本会の研究は全て土木に帰着しなければならない、即ち換言すれば本会の研究は土木を中心として八方に発展する事が必要である。この事は自分が本会のために主張するところの、専門分業の方法及び程度である。
 右の主意は本会の定款においてもその一端を窺うことができる。工学所属の学会の内、土木を除きたる六学会は会員の資格をその専門の者に限っている。しかし本会の定款第四条の一号には、工学専門と掲げて土木工学専門とは言っていない。これは土木以外の専門事項を研究するために他の専門の者が本会に入会することを歓迎するためである。また他の専門の者もその専門を土木に応用する意志のある者は、本会に入会することで本会に益することになるためである。
 なお本会の研究事項は工学の範囲に止まらず現に工科大学の土木工学科の課程には工学に属していない工芸経済学があり、土木行政法がある。土木専門の者は人に接すること即ち人と交渉することが最も多い。右の科目に関する研究の必要を感ずること切実なるものがある。また工科大学の課程に工業衛生学がないが、土木に関する衛生問題ははなはだ重要である。そして大学の課程にないものはますます本会の研究を要求するものである。これらは数え上げれば、なお外にどのくらいあるかわからない。
 人格の高き者を得るためには総括的教育を必要とするという説は、しばしば耳にするところである。西洋においてラテン語に偉大な効果があることを認める学者が少なくないが、同様に我が邦においては漢学を以って人物を養成すべきであると説く者が多い。皆相応の理由がある。これらは本問題に直接の関係はないが、参考に値するものであると認識している。
 会員諸君、願わくば、本会のために研究の範囲を縦横に拡張せられんことを。しかしてその中心に土木あることを忘れられざらんことを。

将に将たる土木。その神髄は、この演説そのものがぼくに果たした役割である。すなわち卓越した目標を掲げて現在・未来の人類によい影響を与えること。そして、多業種の技術者たちを束ねて、着実に目標を実行に移すことだ。集まり散じて人は変われど、あおぐは同じき理想の光。人生の時間を使ってこの世界に何を残すかに比べれば、研究者になるか、実務家になるか、公務員になるか、といった「何になるか」という議論は些細なものだ。予言するようだが、現代の土木学生たちは、どこにいたとしても、より良い社会の実現に大きく寄与することになるだろう。

そんな未来の偉人たちが一堂に会しているのが、土木業界の学生団体Doboku Labです。興味のある方はコメントをください。

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Takaaki Nishikawa 西川貴章
あなたにとって素敵な1日でありますように!