(閑話休題)全固体電池の”個体化”問題
こんにちはBattery356です。前回の投稿でリチウムイオン電池の正極材の歴史を紐解くと宣言しましたが、いきなり各論に入るのもということで、今回は全固体電池の”個体化”問題について書いてみます。
全固体電池の”個体化”問題とは、初期ドゥルーズが「個体化 individuation」として掲げた概念※ではありません。なぜか”個体”と変換されたまま全個体電池と記載されるネット空間上の現象です。
コーパスで分析した訳でも、統計的に調べた訳でも無いですが、ネット上には多くの「全個体電池」が存在します。パターンとしては、タイトルのみ”全個体”で記事は”全固体”となっているうっかり系と、全編”全個体”で変換ミスのままという潔し系の2つが有ります。
この現象は今に始まったものではなく、全固体電池が騒がれだした7年ほど前から良く見かけました。all-individualized batteryのこと?all-personalized batteryだと「個々人に遍く行き渡る電池」というノマドワーカーを想起させる深い意味なのではないか?といったことも考えましたが、単に日本語変換時に、”亻(ニンベン)”が付いても気が付かないということだと思います。
一方で出る出ると言われ続ける全”固”体電池は、なかなか世の中に出てこないことも巷間に付されるようになってきました。これは全固体電池がラボやパイロットラインでは試作出来ても、大型化や量産することが難しいことに原因が有ります。
電池の場合、半導体の微細化とも太陽電池の大型化とも異なる「緻密化」が寿命に影響するため、全固体電池の製造方法についてプロセスイノベーションが必要になりますが、これに苦労していると言って良いでしょう(他にも課題はたくさんありますが)。
つまり、特殊な”個体化”された全固体電池は作れても、製品として一般名称で呼ばれる全固体電池はこの世に存在しません。なので全個体電池も強ち間違いでは無い、特殊な全個体、、、間違えた、「特殊な全固体電池」を意図したシーニュなのかもしれないと思うようになりました。
最近、”個”人的な技術哲学ブームすなわちマイブームで、ドゥルーズを皮切りにして今はシモンドンの「個体化の哲学」を読んでいるところです。スコトゥスや中世スコラ哲学まで手を伸ばすかは来年になったら考えます。
※個体(特殊)と普遍(一般)を批判するホワイトヘッドの有機体論や、シモンドンの形相(かたち)と情報から導かれる「個体化の哲学」などの認識論や存在論