【小説】ぼくと彼女とコロとミケ
コロはミケに恋をしている。
窓から明るい光が差し込む朝、トビオが目を覚ますとコロがうれしそうにしっぽを振っているところに出くわすことがある。視線を追うとその先にはいつもミケがいる。その時の気分に応じてピアノの上に、本棚の上に、そしてネコタワーの上に。三毛猫であるミケは高いところが好きだ。
コロが懸命にしっぽを振ってみてもミケが意に介することはほとんどない。ワンと悲しげに吠えてみせると、うずくまった姿勢からちらと薄目を開けてみせるくらいだ。するとコロは悄然としっぽを振るのをやめる。
――なんだよ。返事くらいくれたっていいじゃないか。
子犬だって傷つくんだぞ、としばらくは憤然としている。それでも一時間後には、またミケを見てしっぽを振っている。コロはミケが大好きだから。そんなコロを見ていると、トビオはいつも彼女のことを考えてしまう。
今朝、トビオがいつもの時刻に目を覚ますと彼女の姿はもうリビングになかった。仕事に出かけたのだ。最近の彼女は忙しそうだ。人気のないダイニングに昨夜の夕ごはんの食器がそのままに置かれたままになっていることからもそれが分かる。
『そうだ、朝ごはんをどうしよう』
トビオに気づいたコロが物欲しそうに足元へすり寄ってきた。
――おなか減った。
夕ごはんの食器を片づけようと手を伸ばしたとき、食卓に置かれた小さなメモに気がついた。丸みを帯びた彼女の字だ。
『この子たちの朝ごはんをお願い』
彼女にはコロたちの朝ごはんを準備する時間もなかったようだ。いつになくコロがトビオにすり寄ってくるところを見ると、きっと腹ペコなのだろう。
――ごはんにしよう。ごはんにしてよ。
ちぎれんばかりにしっぽを振ってごはんをねだるコロは、トビオの足元をくるくると円を描いて回ってみせる。それとは対照的にミケはタワーの上から長くてふわふわしっぽをひと振りしただけ。
――あなたたちの考えてること、分かってるわ。
わたしはどうでもいいんだけど、とミケはゆっくりと両目を閉じて、そして片方だけそっと薄く開けてトビオたちの様子を伺う。猫はなにごとにおいても慎しみ深くあるべきだとミケは信じているのだ。
トビオはキッチンの引き出しから、ミケにはキャットフードとミルク、コロにはドッグフードを用意した。
『どうぞ、たくさん食べなよ』
――しめた。ごはんだ。
――やっぱりね。
食卓の上、夕ごはんの食器をシンクへと運びながら見ていると、コロはくちゃくちゃがたがたと騒々しくフードボウルにむしゃぶりついていて、ミケはそんなコロを横目にするりとピアノの上から降りてくると目を細めて食事に取りかかった。静かに餌を咀嚼するさまに研ぎ澄まされた野生が感じられて美しい。
『おいしそうだね。なんだかぼくまでごはんが食べたくなるよ』
――もっと、ほしいなあ。
――この子と一緒に食べるなんて、うんざりだわ。
溢れる食欲もあからさまにがつがつと食べ散らかすコロの作法とその佇まいに静謐を感じるミケの作法はずいぶん趣が異なる。
――遊ぼうよ。
食事が終わるとさっそくコロは遊ぼうとミケにアピールをはじめた。お気に入りのおもちゃを咥えてみたり、おどけた格好でリビングの床に寝転んでみたり。
でも、ミケは興味なさげに身をかわしてひらりと本棚の上に飛び上がり、そこで丸くなった。午前中、ひだまりができるミケお気に入りの場所だ。
――朝のうたた寝って、最高。
小さくそう言って目を閉じる。日向ぼっこしながらひと眠りするらしい。ミケに憧れてやまないコロは同じように本棚を登ろうとするけれど、上手くいくはずもなく床に尻もちをついている。
――いたい!
何度試みてもだめ。
『無理だよ犬と猫とは違うんだから』
ひとしきりそうして本棚を登ろうとしていたコロは、ミケにバイバイするようにしっぽを振られて憤懣やる方ないのだろう、後片付けをするトビオに八つ当たりをはじめた。足を甘噛みしたり引っ掻いたりするのだ。
『後片付けの邪魔だよ』
――悔しいな。ミケのように登れないよ。
そのままミケは眠ってしまい、退屈になったコロはさらにトビオに絡みはじめる。足を引っ掻いたり、獲物と見立てて飛びかかったり、子犬のコロは遊びに飽きることがない。
――これって登れないのかな?
『邪魔だってば』
家事を任されているトビオは、ずっとコロの相手をしてられるほど暇ではない。噛みつかれたり引っかかれたりしながらもリビングとダイニングの掃除を済ませ、次に洗濯物を干す。それからバスルームの掃除に取り掛かる。するとようやく相手をしてもらえないと気づいたコロが諦めてミケの眠る本棚の下で昼寝をはじるのだ。
コロとミケはお昼寝、トビオはリビングで省力待機。この家に平穏な時間が流れ、テレビの昼の帯ドラマの展開に『それはあり得ない』とトビオがひとりツッコミを入れる昼下がり。
チャイムが鳴るとスーパーの宅配サービスで夕ごはんの材料が届いた。彼女が注文したものだ。見ると牛肉、じゃがいも、玉ねぎ、にんじん……今夜はカレーのようだった。
トビオがキッチンで夕ごはんの下ごしらえをはじめると美味しそうな匂いに誘われて、二匹がダイニングにやってきた。にゃお。優雅に鳴くミケと、よだれを止められないコロに炒めたお肉を少しおすそ分け。そして、すっかり目が覚めたコロは部屋中ミケを追い回して遊ぼう遊ぼうと大騒ぎ。
――楽しい、楽しい。
ミケも気分がいいのか、にゃあ、ダダッ、ぴょん、ひらりとそれに付き合っている。
――わたしに噛みつかないでよ。
夕方に向けて、いつもこの家は少し騒々しい。
日が傾き、トビオが洗濯物を取り込んでしまう頃、ミケはタワーの上でひと息入れそのまま眠ってしまうのだ。名残惜しそうにそれを見上げるコロ。
――ねえミケ。遊ぼうよ。
彼の想いは届かないどころか、気づいてさえもらえない。
『ミケのこと、ほんとに好きなんだなあ』
――大好きなんだ……。
くうんと切ない鳴き声にトビオの電圧も下がり気味。
日も落ちてすっかり暗くなった頃、彼女が仕事から帰宅した。
「ただいま」
彼女の声に、ぱっとタワーから飛び下りたミケが最初に。わずかに遅れてコロ、そして最後にトビオがお出迎え。
――おかえり。
――おかえり!
『おかえりなさい』
彼女はトビオたち全員の主人であって憧れの人だ。
「みんな仲良くしてた?」
――遅くてもよかったのよ。
――もっと遊びたい。
『ええ。とっても』
そしてだれに対しても優しい主人なのだ。彼女はにっこり笑ってこう言う。「そう、よかった」と。
彼女が部屋着に着替え終わるとみんな揃っての夕ごはんである。トビオが腕をふるったカレーを彼女はとてもおいしいと褒め、おかわりまでしてくれた。ぶーんと電圧が上昇する。この一瞬にトビオは何物にも代え難い喜びを感じる。彼女のためなら何だってしてあげたいと思う。
深夜十一時五十九分。あとわずかでトビオははスリープモードに入り、眠る。コロはもうピアノの下で丸くなっている。そして、トビオの音感センサーは隣室で眠る彼女の規則正しい寝息を捉えている。
瞳をきらめかせた猫がロボットに話しかけてくるのは決まってこの家が暗闇に沈むこの時刻になる。足音もたてずにトビオの肩に飛び乗ると、センサーのそばでミケが囁きかける。
――ねえ、あなた……。
でも、設定された十二時がくる。
『おやすみ、ミケ。ぼくは眠るよ。明日もよろしく』
そうして、いつもトビオは朝まで眠ってしまう。だから、真夜中になって猫のするこんな質問をいつになっても知らないままだ。
――彼女に恋しているのね?