空を覆う白い霧の向こうから雨が降り募る。無数の水滴が糸を引いて地面を打ち、中庭のあちらこちらに大きな水たまりを作る。この雨はもう10年ものあいだ降り続いていた。 「雨は止んで欲しくないわ」 カーテンを取り払った《シェルター》の窓からの景色を眺めながら小町はそう呟いていた。雨のあいだ長く伸びた黒髪は、とうに彼女の腰を過ぎている。今日のために切ってあげようとしたけれど、だめだと言い張るのでそのままになっていた。 「まもなく止むよ。《セブンピークス》がそう発表しているから
そこで足を止めたのは その暖かそうな明かりに惹かれたからかもしれない。その夜はとても寒かったから。 ――奈々に似てる。 夜店の屋台には、ほかにいくつもの人形が並べられていたけれど、聡美の目は吸い寄せられるようにその人形の上で止まった。白熱電球の吊り下げられた縁台の上に並べられているのは、10センチに満たない布製の人形たちだった。 その人形は、薄桃色のワンピースを着て、頭にも同じ色のベレーを被っている女の子。聡美の娘、奈々もそんな薄桃色の服が好きだった。電球の柔らかい明
ツイている人というのがいる。 ねじくれた恋愛感情をもって異性について回るストーカーや、死に際の強い妄念が彼をそこに縛りつけている地縛霊のことではない。そういう人たちも確かにツイているといえるかもしれないが、ぼくのいうツイているとは、運がよくて冴えていて、がっぽりと稼いでいる人を指していう。競馬で勝っている人のことだ。 最近のぼくは競馬にハマっている。きっかけは馬を美少女キャラクターに擬人化した某ソーシャルゲームだったのだが、スマホのなかのレースに飽き足らなくなったぼ
ズルズル。 暗闇の中でなにかが引きずられている。 荒い息づかい――何いる。 きゅるきゅると金属が擦れている。 そして、衣擦れ。人だ――ひとりではない。 声を押し殺して……嗚咽している。 さいごに大きなため息。 しばらくして部屋の引き戸がそっと閉じられる音がした。 ☆ 午後二時四十五分。休憩室に集まったわたしたち研究室のスタッフが、今日のおやつは何にしようかしらと相談しているところへ、和歌山県産の桃を手土産に捜査一課の八田さんが顔を出した。 「ナイスタイミ
ひさしぶりに、そこを訪れてみようと思ったのは、ちょっとした思いつきだった。前の晩、部屋を整理していると、押し入れの中から高校生のときに読んでいた本を見つけた。その頃よく読んでいたSFやファンタジーだ。まだ、ライトノベルと呼ばれる小説はなかった。 本が好きな高校生だった。授業が終わると自宅までの帰り道、書店をはしごして帰るのが、ただひとつの楽しみだった。学校にも、家にも居場所のなかったわたしは、現実よりも本のなかを生きていた。大学を出て一人暮らしを始めるとき、家具より服よ
阪神高速湾岸線を神戸に向かって走り出すと、夜は闇の衣を脱ぎ捨て、街は目を覚ましはじめた。 早起きはつらいけれど、夜明けの街を駆け抜けるのは気持ちがいい。アクセルを捻ると、CBR1100XX「スーパーブラックバード」――20年来のおれの相棒は、即座に反応し、日常の風景を置き去りにして加速する。オートバイはおれを自由にしてくれる。 空はだんだんと明るくなってきたけれど、大阪湾沿いを弓状に伸びる湾岸線は、まだ夜のなかだ。行く手遥かに黒々と連なるのは六甲の山脈(やまなみ)。
昭和〇年、夏――。 両親が共働きだった子どもの頃のわたしは、家にいるあいだずっと祖母と遊んでいた。当時は三世代同居が普通で、農業を営んでいる祖父母と、勤め人の父母は同じ家に暮らしていた。きょうだいは姉がひとり。六人家族である。 祖母は年中、祖父と共に畑に出て、草抜きと野菜の収穫に精を出していた。わたしは、畑の畦に寝転んだり、隙を見てはイチゴを頬張ったりしながら、爪のあいだに土が挟まった祖母の手元をよく見ていた。 「おばあちゃんの手って汚いんやな」 「……なんて、情けな
そこは、ありさの部屋と呼ばれていました。 裏庭と向かい合わせになった大きな棚に亜梨沙がいるからです。栗色の髪、青い目、白い肌と桃色の頬。亜梨沙は両親が結婚するときにお父さんからお母さんへプレゼントされたビスクドールです。たくさんのフリルがあしらわれた服に身を包み、いつも棚の上からわたしのことを見下ろしています。 「アリサ、お行儀よくしてね」 亜梨沙とそっくり同じ布地のたっぷりしたワンピースを着せられたわたしはアリサといいます。亜梨沙と同じ名前なの。でも、いつもお母さんか
月、火、水、木、金、土。月、火、水、木、金、土。月、火、水、木……。 お母さんと二人、朝の食卓。ダイニングチェアが三つ、ブルーのエプロンと黒いランドセル。ティーカップに口をつけてお母さんは怪訝な顔。「なにしてるの」って。さっきから何度も曜日を数えているけど、いくら数えても一週間は月曜日から土曜日までの六日間だった。 「ねえ、お母さん。一週間って六日間でいいんだっけ」 「なに言ってんの当たり前でしょ」 壁に掛けられたカレンダーは、一週間が月曜日から始まって、土曜日で
中学一年の夏休み前、期末試験を終えて弛緩した空気が揺蕩う教室で起こった出来事を、ぼくは今も鮮明に覚えている。それは突然やってきて、以来、ぼくのなかに居座りつづけることになるのだけれど、ぼくはその意味に長い間気づくことができないでいた。教室の外に蝉の声がやかましい、暑い夏の日の出来事だった。 「今日の授業は、皆さんに自分たちの運動靴を描いてもらいまあす」 いつものように、美術の鈴木先生は小さな体に似合わぬ大きな声で、今日の課題をぼくたちに宣言した。 「皆さん、靴は持っ
コロはミケに恋をしている。 窓から明るい光が差し込む朝、トビオが目を覚ますとコロがうれしそうにしっぽを振っているところに出くわすことがある。視線を追うとその先にはいつもミケがいる。その時の気分に応じてピアノの上に、本棚の上に、そしてネコタワーの上に。三毛猫であるミケは高いところが好きだ。 コロが懸命にしっぽを振ってみてもミケが意に介することはほとんどない。ワンと悲しげに吠えてみせると、うずくまった姿勢からちらと薄目を開けてみせるくらいだ。するとコロは悄然としっぽを振る